『アイドル・デイズ』 ※ 時として、映画と現実の間にある境目は取り払われてしまう 映画の世界と現実とが、相互に流通可能な一つの連なりになってしまうのだ                     ウィリアム・フリードキン ※ 第一章 四月のぬるい風にまどろんでいるうちに、大学生になっていた。 新生活を始めてはや二週間。入学手続き、授業の選択、新歓コンパにサークルの勧誘。そして新居への引っ越し。はじめての一人暮らし、自炊にバイト探し、開放感に満ちた昼とたまらなく寂しい夜。色々なことが春一番のように吹き抜けて、僕はそのつむじ風に巻かれてくるくると回転した。 電化製品は最低限のものだけ揃えて、実家からはパソコン一台だけ持ってきた。できるかぎり節約した生活を送ったつもりでも、気がつけばかなりの額が出て行ってしまった。 忙しさの渦に身を任せているうちに僕の連続性は失われ、僕はいったん全て解体されてまた組みなおされた。何もかもが一新され、新たな義務と任務が僕を規定する。 僕はちらりとカレンダーを見る。バイトの給料日を表す赤い丸まではあと3週間ほど。それまではなるべく無駄な出費を抑えたい。 そんなわけで、僕の夜の娯楽はもっぱらインターネットになっていた。画面上では、小さなスクリーンの中で懐かしのスーパーマリオが走り回っている。 動画共有サイト「ニコニコ動画」がスタートしてしばらく経つが、ユーザーの登録数は増える一方のようだ。これまでもyoutubeなどの海外サイトで動画配信は行われていたが、このニコニコ動画では動画の上にコメントを流せるという機能がうけて、爆発的な盛り上がりを見せている。ユーザー登録数は約30万人。とはいえこれは現在までに開放されたアカウントの数であり、開放待ちのユーザーは100万以上とも言われている。 今見ているのはいわゆる「改造マリオ」 (http://www.nicovideo.jp/watch/sm176588 これ以前は削除済み) 1982年に出た「スーパーマリオブラザーズ」のデータを改造し、独自のステージを搭載したソフトのプレイ動画である。つまりはエミュレーターなのだが、こうした公では扱われない動画が人気となるあたり、ネットの懐の深さを感じずにはいられない。 「死屍累々シリーズ」と銘打たれたこの動画、その想像を絶する難易度を、プレイヤーが少しずつ成長しながらクリアしていくさまが人気を呼んでいる。いつ見ても感心してしまう、一つのステージをクリアするのにマリオが30人ぐらい犠牲となり、それでもなお、ちゃんとクリアできてしまうという絶妙の難易度を。ゲームとはキャラクターが成長するのではなくプレイヤーが成長するものだ、と言ったのは誰だったろうか?  画面上のマリオがあまりにも広すぎる谷間を飛び越え、ゴールの旗にたどり着く。すると画面に「おおおお」というコメントが無数に現れ、わずかな処理落ちを誘発しながら右から左へと流れていく。この、まるで何十人もで同時に動画を見ているような臨場感がニコニコ動画の魅力なのだろう。もちろん僕もキーボードの「O」を長押しして、コメント入力欄に現れる「お」の行列を画面上に流し込む。 動画はそこで終わった。次は何を見ようかと思い、ランキング画面に切り替える。特にお気に入りのシリーズがあるわけでもないので、その日のランキングで上位に入っているものを適当に見るのが習慣だ。 「ん?」 と、声を漏らす。一位にアイドルマスターの動画が入っているようだ。「エレクトロ・ワールド」と曲名がある。右手がマウスを滑らせる 。 (http://www.nicovideo.jp/watch/sm1129946再UP版) クリックして、動画を見て、画面に映し出された動画を見つめているうちに、僕は自分が解体され、再構成されるような感覚を味わった。 僕の見ようとしている以上のものが僕の目に流れ込んできた。 僕はしばらく放心した。 衝撃が電気のように僕の背中を突っ走って、頭の頂点から抜けていく。音楽がやさしく耳から忍び入り、僕の中枢を激しく揺さぶってくる 。 「何だ…これ」 アイマスとは、Xbox360のソフト「THE IDOLM@STER」のことだ。新人アイドルを育成するという趣旨のゲームであり、プレイ中には3Dモデリングされた女の子が多数登場し、歌と踊りを披露する。ニコニコで流行していたのは知っていたが、僕はというとゲーム自体よく知らなかったし、そのMADといわれても興味が持てなかったのが正直なところだ。 それがどうだ、この完成度は! この曲はニコニコで流行しているものではない。またアイドルマスターのゲーム中にかかる曲でも、あるいはキャラを演じた声優が別の場所で歌った、いわゆる「中の人繋がり」でもないらしい。 元の曲を歌ったのはPerfumeという、アイドルマスターとは何の関係もないアイドルグループだ。そのどことなく無機的な印象を与える声と、物悲しさを感じさせる退廃的な歌詞が、まさに仮想世界の偶像《アイドル》である3Dグラフィックのキャラに恐ろしく調和している。しかも画面をモノトーンに加工したりと、センスの感じられるエフェクトが画面を盛り上げる。 画面上に吹き荒れる賞賛と驚愕のコメント群。動画が終わるのももどかしく、僕はまた最初から聞きなおす。こんなとき「繰り返す」機能でもあればいいのにともどかしく思う。 何かを感じる。時代のうねりともいうべき大きな波を。 かつて映画の世界には「大列車強盗」「月世界旅行」「カビリア」「イントレランス」などの偉大なる作品があった。それは娯楽として優れているだけでなく、存在そのものが革命であり、世界に齎された新たな元素だった。それらは映像の編集という概念を、特殊効果を、カメラを移動させながらの撮影を、単なる劇場型の芝居にとどまらない壮大なテーマを秘めた物語を生み出し、そのたびに映画の世界は深く広く発展した。 ああ、僕はもしや、何か途轍もない怪物が生まれる瞬間に立ち会ったのだろうか。 画面上ではデータの海を血潮とする歌姫たちが、何かを呼び覚まそうとするかのように歌い、踊り、見るものを夢幻の彼方へと連れ去っていく。 そして夜が更ける。 ※ 次の日、僕は電車を乗り継いで秋葉原へと向かった。 メッセサンオーにてXbox360を、そして「THE IDOLM@STER」のソフトを購入する。荷物は背中のザックに突っ込み、今度は雑居ビルの中へ。 訪れたのは地上四階、パソコンソフト専門店。 僕は適当に売り場をうろつき、動画編集ソフトを探す。最初はフリーソフトを使うつもりだが、一応市販のものもチェックしておいて損はないだろう。 そう、僕はアイマスMADを作ろうと思っていた。 動画編集にも、アイマスにも全くド素人の僕が挑戦するなんて、我ながら無謀なことだと思う。それがどのぐらい無茶なことなのか自分でも本当はわかっているのだが、理性の静止に逆らって動いてる今の僕は、不思議な興奮に包まれていた。絶対に飛び移れないと思える広さのガケに、勇敢に身を躍らせるマリオはこんな心境なのだろうかと馬鹿なことを考える。それはヒモ無しバンジージャンプの昂揚、全速力 で突っ込むヘアピンカーブの快感。 それにしても、動画編集ソフトと一口にいってもいろいろあるものだ。果たして他のMAD製作者は何を使っているのだろうか。 左右にそれぞれパッケージを持ち、両者を見比べていたとき、後方から突然怒鳴り声が聞こえてきた。 「だから、あの外付けHDDが不良品だったって言っているでしょう」 「は、はあ…」 女性の声である。かなりの剣幕で怒鳴っているようだ。 その声の方向を見たとき、一条の閃光が僕の目を射抜いた。ショップの明るすぎる照明に反射する、その前頭部。ヘアバンドで髪の毛を全部後ろに撫で付けているせいか、おでこの部分が異様に広く見える。 「ハードディスクからどんな音がしたと思うの?! あのガリガリって音は明らかにプラッタがヘッドに接触している音だったわ! 何なら今そこのパソコンに接続して聞いてみましょうか!」 「で、ですから、現品とレシートとの引き換えで購入代金はお返し致しますから…」 「そういう問題じゃないわ! 誰がお金なんて欲しがってるもんですか」 怒鳴っているのは女の子だった。上等そうなワンピースと洒落たブランドバッグ。ばっちりとアイラインを引いているところから見て大学生かと思われるが、その小柄な体型と、ハンドベルをぶん回すようなキンキン声が未成熟な印象を与える。目がとても大きく、おでこはそれよりも大きかった、いやそれは当たり前か。 店員は気弱そうなやせぎすの男で、女の子のあまりの剣幕に押される一方である。どうやらまともに動作しない初期不良品のHDDをつかまされた女の子が、店員に食って掛かっているらしい。 女の子の声はどんどん大きくなり、そして言ってることはだんだん混乱していく。購入したHDDのことだけに留まらず、その不良品によってどれぐらいの被害をこうむったかとか、もう一度この店に出直すことになった手間がどうだとか、最初の電話での対応がどうだとか、滝のように、いや、ビルの発破解体のように一気にまくしたてる。可愛そうな店員さん。こういうときどう対処していいのか分からないのだろう。きっとあの子は素直な謝罪しか求めていないというのに。 そのとき、僕の視覚野の上端あたりで、何かが揺れ動くのが見えた。 パソコンのモニターである。28インチはありそうだ、ブラウン管タイプなら重量もかなりのものだろう。 怒鳴り散らしている女の子のすぐそばにキャビネットのようなものがある。その上に置いてあるモニターが、ゆらゆらと揺れている。 なぜ、あのモニターはあんなにギリギリのところに置いてあるんだろう? ありえない揺れ方をしている。 嘘だろ、おい。 手に持っていたパッケージを落とす。僕の眼は大きく見開かれていただろう。一瞬の躊躇、手を伸ばすべきはモニターか。それとも。 僕は女の子の背中を突き飛ばした。モニターが僕の顔の横を掠める。全身が総毛立つ、がんっ、中身の詰まった重量物が落ちる音。ワンテ ンポ遅れている店員の悲鳴。 「な、何なの…?」 よろめいたまま数メートル移動し、その場に膝をついて倒れる女の子が無事なのを見て、僕はほっと安堵をつく。そして店員を睨みつける。僕が怒鳴る前に、女の子の天を引き裂くような声がとどろいた。 「棚の! 上ぐらい! ちゃんと整理しなさい!!! なんてお店なの!!!!!」 素晴らしい金切り声。今の叫びで店内のガラスが全部割れたとしても僕は驚かない。店員はというと強風に吹かれたタンポポみたいにのけぞり、両手で顔を隠して小さな悲鳴を漏らす。 僕が何か言う必要もないかなと思い、ちらりと店内を一瞥したあと店を出て、階段を下りる。 「ちょっと、待ちなさいよっ!」 呼び止められる。振り向いて階段の上を見上げると、腕を胸の高さで組んで堂々と立ち尽くす姿。階段室の薄暗い照明の中でも輝きを失わないその頭部。 「お礼ぐらいするわよ!」 ※ 秋葉原UDXの中にあるお好み焼き屋AKIBA−ICHI。 目の前で焼かれているのは、豚・エビ・タコ・イカその他もろもろ、実にカラフルなお好み焼きである。その名もアキバ焼きというらしい。 秋葉原のようにいろいろ入っているからアキバ焼きだそうな、フランクなネーミングセンスに好感が持てる。ミックス焼きという名前のことはしばらく忘れよう。 僕の前に座る人物の名前は、釘宮伊織というらしい。なぜお好み焼き屋なのかというと、この店のアキバ焼きのことを噂で聞いて、一度食べてみたいと思っていたそうだ。 一人では入りづらい店に付き合わされただけのような気もする。まあいいか。 「…あ、おいしい!」 一口食べてそう感想を漏らす。伊織の大きな瞳はくるくると動き、若々しい感情のゆらめきを表現していた。 「こんなにおいしいとは思わなかったわ! ねえ?」 「そ、そですか…」 確かにまずくはない。が、しかし、取り立てて特別な味でもない。つまりこれはお好み焼きとして当然備えているぐらいの美味さだ。 意外と普段の食生活がつつましいのだろうかと思っていると、とんでもない呟きが聞こえてくる。 「本当においしい…今度サトウさんに作っていただこうかしら」 ん? よし、ちょっと待った、了解。 整理させてくれ。 作っていただこう、というからにはそのサトウさんは彼女の食事を日常的にまかなう人物なのだろう。友人? 親? あるいは…そう、家政婦さん。もしかするとシェフと呼ばれる人物かもしれない。 そして、普通のお好み焼きの範囲を大きく脱しているとは言えないアキバ焼きへの感動。 目の前の、「こんなにおいしいとは思わなかった」という言葉は、アキバ焼きにではなくお好み焼きにかかるのだ。 8文字で要約しよう。 この子はお嬢様だ。 「それにしても」 ナプキンで口をぬぐって、伊織が話し出す。背筋が伸びていて姿勢が良い、箸の扱いもきちんとしつけを受けている者のそれである。さっきの激昂しているときとはだいぶ違い、今はいかにも育ちのいいお嬢様の雰囲気が漂っている。お好み焼きの匂いと一緒に漂っている。 「秋葉原もだいぶ変わったわね。昔は食事ができるところは少なかったし、ショップの店員は無愛想だったけど、不良品をつかませるようなことはなかったわ」 そうなんですか…と僕は相槌を打つ。東京で一人暮らしを始めるまで秋葉原には1・2度しか来たことが無かったが、たしかにこの街はどんどん変化している。超大型の家電量販店が次々できたり、メイドさんが街にあふれたり、外国人や修学旅行生の観光ルートになったりと、時折耳にするニュースだけでもこの街の激動を知るには十分だった。今いるUDXビルもまた、秋葉原の変化を予兆させるものの一つらしい。 「秋葉原へはよく来るの?」 「ええ、ソフマップが中央通りにできた年から来てるから…長いお付き合いね」 ソフマップがいつごろ中央通りにできたのか知らない。伊織はどう見ても十代だし、4〜5年前ってところだろうか。 「その翌年のWindous95騒ぎのときは大変だったわ。3.1の時はニュースになんてならなかったのに、あの騒ぎはいまだに良く分かんない」 …ちょっと待て。 Windous95? その発売日は…1995年だよな、もちろん。 「ええと、12・3年前から秋葉原に来てるわけですか?」 「そうよ、当時は幼稚園児だったから、家のものに付き添ってもらってたけど」 ディープな幼稚園児もいたものだ。 その後はパソコンについての他愛の無い話を交わした。二言、三言喋っただけでも、伊織が機械関係に並々ならぬ知識を持っていることがすぐに分かる。ド素人の僕ですら分かるのだから相当なものだ。そういえば「釘宮」という名前は、釘を鍛えることを生業とする鍛冶師の家系であり、つまりは技術者の血筋であると想像できる。もちろんただの想像だが。 そして食事も終わり、僕たちは並んで店を出て、秋葉原駅の前で別れた。 改札をくぐるときにちらりと後方を振り返ると伊織はもうこちらを見てはおらず、そしてどこから現れたのか、漆塗りのようなエルダー・ブラックのロールスロイスが滑り出でて、伊織の隣でぴたりと止まった。 ※ 山手線に揺られつつ、僕はやはりさっきの女の子のことを考えずにはいられなかった。 あの秋葉原の中ですら異彩を放つその存在感。挙措ににじみ出る育ちのよさ。そしてぱっと人目を引く大きな目と、若さを象徴するように大きく開け放たれた額。 誰かに似ている、と僕は思う。そしてようやく気づいた。釘宮伊織は「THE IDOLM@STER」の登場人物の一人、水瀬伊織にそっくりなのだ。 ゲームの中の伊織は13歳だし、アニメ絵のキャラと実際の人間が本当の意味で瓜二つになるわけがないが、確かに大きな目とか、気の強そうなところとか、存在感を誇示する大きな額とかが符合している。そういえば水瀬伊織の方もお嬢様だったんじゃないか? 家に帰ったら、ニコニコ動画で伊織のMADでも見てみようか、それとも買ってきたゲームの封をといてさっそく生の伊織を見てみるかなどと思いつつ電車を乗り換え、僕は背中のザックの重量を感じながらずっと窓の外を見ていた。 我が家の最寄り駅は秋葉原から25分。ビルが少なくなって空も開けてきたが、まだ東京の喧騒は残っている。僕はふうと息をつく。 駅舎を出て、直情より降り注ぐ太陽の光を浴びたかと思うやいなや、肩に強い衝撃を受ける。 「うわっ」 誰かがぶつかってきた? 咄嗟に背中のザックを気にする。 「キミ! そいつを捕まえて!」 ハスキーな声。かなり遠くから聞こえてくる。誰を? ああ、いま僕にぶつかってきたやつをか。 でも、バランスを崩して転びそうな人間にそんなことを言ってはいけない。体の制動を取ることに意識が向けられているせいで、命令に素直に従ってしまうから。 よろめき、地面に倒れそうになりながら、僕は反射的にその男の服を握ってしまった。 左のコメカミに強い衝撃、意識が頭蓋骨からはみ出しそうになる。思い切り殴られた、しかもかなりグッドなポイントを。 地面に何かが散らばる。カード類、サイフとその中身の小銭。メモ帳とボールペン。SUICAのカード。何かのカギと印籠の形をしたキーホルダー。USB接続のメモリースティック。 「ちいっ!」 髪の長い、ハンチングを深くかぶった若い女だ。若い女の引ったくりとは珍しい。どうやら手に持っていたウエストポーチのようなもので殴ったらしく、殴った弾みで中身がこぼれてしまったポーチをその場に投げ捨て、女は逃走した。 「キミ! 大丈夫?!」 大慌てで近寄ってくるその人物は、短めの黒髪に切れ長の鋭い目と、バランスのいい位置にある小鼻が印象的な、かなりの美青年だった。ジャージの上下という姿がじつに動きやすそうだ。 僕の背中に手を回して助け起こすと、ズボンの裾をはたいてくれる。 「殴られたろう? ケガはない?」 言われて、ようやく頭部に鈍痛がやってくる。血が出ていないかどうか確認。とりあえず外傷はなさそう。 「大丈夫…みたい」立ち上がる。まだ少しくらくらする。 「いやあ、助かったよ。ボクともあろうものが引ったくりにあうとはね」 「引ったくり…ああ、そうそう、色々こぼれたけど、何か大事なものとか無くなってないかな?」 と、地面に散らばってしまったものを一緒に拾い集める。ウエストポーチにはごちゃごちゃといっぱい入っていたようで、全部拾い集めてみるとポーチはパンパンになっていた。 「うん、何もなくなってない。本当にありがとう」 と言って笑う。実に魅力的な笑顔だ、こちらをまっすぐに見つめる目と、凛々しく引き結ばれた口元を崩さずに、気高さを保ったまま笑う。元・宝塚月組トップスターの涼風真世がこんな笑顔だったろうか。生涯かけて身につけたいスキルのひとつだと思う。 「なくなったものが無くて良かったよ。それに、引ったくりに殴られたのが君のほうじゃなくて良かった」 「ふうん?」 と、その美青年はちょっと不思議そうな顔をする。 「どうしてそんな風に思うのかな?」 「え? だって、女の子なんだし、顔を殴られたら一大事じゃないか」 へえ! と、その子は大げさに驚いてみせた。実に見事なハスキーボイスだ、僕と同じぐらいの年だろうにまったく濁りの無い硬質な音である。この中世的な外見にこの声の取り合わせは、そこに何らかの神の配剤を感じずにはいられない。 「ボクが女の子だって良く分かったね。いやあ、会う人みんなに男と間違えられてるんで、もう初対面の人には男として振る舞ってるのに」 僕は少し考えて、なるべく平然とした顔を装って言った。 「何言ってるんだよ、見ればすぐに女の子だって分かるさ」 すると、その子の頬にさっと朱が差す。 「そ、そうかな? あはは、そ、そう言ってもらえると嬉しいよ」 よし、やはりこの答え方で良かったと脳内ガッツポーズ。 「ボクは青葉真、君は?」 僕も自分の名を名乗った。 まさか目の前の真が、アイドルマスターに出てくる菊池真によく似てるので女だと分かった、とは言えない。 「何かお礼がしたいなあ。あ、そうだ、これ」 真はポーチの中をがさごそと探り、中から短冊形のチケットを抜き出す。 「これ、僕のステージのチケット、よかったら彼女でも誘って遊びに来てよ」 チケットは二枚。ダンスパフォーマンスイベント、とある。 「ダンス?」 「そ、池袋の小さなステージだけどね。月イチでやってるイベント…ボクのチーム以外にも何組か出るけど、ボクらが一応メインみたいな 形なんだよ。あ、お店は18歳未満立ち入り禁止だけど、キミ大丈夫だよね?」 もちろん、と答えると、真はそいつはよかった! と言ってまた笑った。 その後しばらく言葉を交わして後、真はじゃあまた会おうね、と言って去っていく。ダンスをやっているせいか、男性のように広くてしっかりした背中をしている…と感想を述べたらたぶん落ち込むだろう。 それにしても、似ている。 「THE IDOLM@STER」の登場人物。菊池真に印象がだぶる。 もちろんまったくの瓜二つではない。細かな違いをたくさん挙げることは出来る。ああいうボーイッシュな女性を見る機会があまり無かったので、誰も彼も菊池真に見えるだけかも知れない。 どちらにしても、あの生命力の塊のような姿。枯れた腕の老人にすらも若き日々を思い出させるような、まさに青葉茂れるような笑顔。その鮮烈な印象は、僕の脳裏に焼きついたまま長い間消えることは無かった。 ※ 秋葉原まで遠征してようやく自宅に戻ってくると、すぐさま手足を投げ出して寝そべりたくなるような安堵に捕らわれる。あの街は遊園地のコーヒーカップに似ている。中でぐるぐるかき回されているうちは楽しいが、離れればどっと疲弊する。 安アパートの二階、八畳一間のワンルームマンションも、まだ荷物が少ないためにその広さを持て余している。ザックからXbox360を取り出して、配線をモデムに繋ぎ、ネット認証を済ませる。コントローラーがワイヤレスなことに驚いたりしながら、一応のスタンバイが終了するまでたっぷり1時間。 さすがに30センチ×25センチ×8センチのこの機体はでかい。いきなり君臨したそのモンスターは、新生活セールでまとめ買いした電化製品を押しのけ、いきなり部屋の重心となってしまった。なんという堂々たるたたずまい。さあ俺は何をやればいい? ワン・テラFLOPSの浮動小数点演算力に不可能はないぜ? 早速「THE IDOLM@STER」を起動させる。画面が暗転。黒字の背景に一行ずつ浮かんでいく言葉。     「アイドル」      それは   女の子達の永遠のあこがれ    だがアイドルの頂点に立てるのは ただ、一組… 「ふむ…」 ふつふつと湧き上がってくる期待。考えてみれば僕はこのゲームについてほとんど何も知らない。アイドルたちの歌や踊りを見ることがゲームの目的であることは間違いないと思うが、そこへ至るまでにどのようなゲーム的な関門が待ち構えているのか想像もつかない。 僕の分身である新人プロデューサーが、765プロダクションなる事務所の前にたどり着いた時。アパートの薄い壁がわずかに振動した。 コンマ千分のニ秒ほど遅れて陽気な歌声が僕を通り過ぎて部屋全体にびりびりと広がる。 カラオケである。薄い壁の向こうから明るい歌声が、南国の風を思わせる突き抜けた陽気さの歌声が、広末涼子の「大スキ!」を歌っている。 その声を聞いた瞬間、僕は不思議な感慨を感じた。またしても大いなる偶然。二度亀を踏んだ日はもう一匹ぐらい踏む。ノリノリで紡がれる幸せそうな歌詞。 画面に目を戻す。ナムコプロダクションの高木社長が、所属アイドルの誰をプロデュースするのか聞いている。さて誰にしようかと、それぞれのプロフィールに目を通していく。 横からものすごい歌声。 「……」 壁一面が大きなスピーカーになったよう。単に声の大きさというだけでなく、聞くものの注意をそちらに引きつけるような歌声だ。サビの部分のテンションを無視することなどインドの修行僧にだって無理だろう。 僕はゆっくりと腰を上げ、玄関を出て隣の部屋へ行った。確か、大家さんは隣の部屋に住む人物を陽気で愛想のいい子とプラス評価し。少しぼうっとしたところがある、と、いかようにも取れるマイナス評価をした。 インターホンを鳴らす。ややあって中から扉が開かれた。 僕は呟く。 「やっぱり…」 「ほえ? どなたさま、なの?」 ドアを押したままの中腰の姿勢から、僕を見上げる無垢な色の瞳。グロスをまぶした艶のある唇と、見るものに油断をもたらす気の抜けた表情。背中を流れ落ちるゴールドブラウンの髪。毛髪の総量が多いためか、もともと癖っ毛なのか、金色の滝には飛沫が散るように外ハネの部分が生まれている。 似ている。 「THE IDOLM@STER」が家庭用に移植された際の追加キャラであり、新主人公。星井美希に。 「えっと、僕は隣に越してきた…」 名を名乗り、カラオケの音が少しばかり大きすぎたことを伝える。その子は僕の言葉を理解したのかどうなのか、クジラが空を飛んでるのを見たときみたいな表情をして、五秒後に急にぱっ、と笑顔になって両手を打ち合わせる。 「ああ! 引っ越してきたお隣さんってあなたのことね。美希、バイトとか学校とかで忙しくてなかなか挨拶できなかったなあ、ごめんね、なの」 この子とコミュニケートするのは大変そうだぞと一秒で理解し、僕は内心気合を入れる。 「あのですね、カラオケの」「コーヒー淹れるからどうぞ」 部屋の奥へと消えてしまう。 これは高等テクニックだ、天性のセンスがなければできないペースの握り方だ。というか、僕はすでに逆転不可能なんじゃないだろうか。 壁にはディズニーのポスター。オレンジと黄色で配色されたカーペット。部屋の片隅にある書き物机にはサンリオのステッカーが貼られている。折りたたみ式のベッドのそばにはハンディカラオケが転がっていた。 若草色のクッションに尻を乗せてあぐらをかき、やたらに甘いコーヒーを胃に流しこむ。 「おいしい??」 「ま、まあね」 部屋の位置関係を説明しておくと、僕の部屋は202号室。この部屋は201号室である。この部屋の主は長谷川美希、専門学校入りたての一年生。僕と同じ十八歳らしい。ここに越してきたのは一ヶ月ほど前で、学業の傍らコンビニでバイトをしているそうだ。 「それでね、店長ってばヒドイの、レジのお金が50円足りないって、美希にそれを出させるんだもん、さいてーよね」 「そ、そうだね」 実に感動的なほど甘ったるい声である。仕草も、表情も、どれも声の腰がぐにゃぐにゃに砕けており、眠くてたまらない猫を連想させる。 僕は作戦を練る。何となく、ここで主導権を握っておかないと、このマイペースなお隣さんが僕を日常的にマイペースな混乱に落とし込み、マイペースに迷惑をこうむったりマイペースに実害を受けたりしそうな気がする。 そんな風に頭で作戦を練っている時点ですでに勝ち目ゼロなのだが、それはあまり認めたくない。 「あのね、長谷川さん」 「やーん、美希って呼んで欲しいな」 「…カラオケの声がね、ちょっと気になってね、できればもう少しボリュームを下げてくれるとありがたいんだけど」 僕が引っ越してくる前は202号室は無人だったわけで、つまり美希の歌を壁越しに浴びる者もいなかったわけだ。 だからこそ彼女もあんなに力いっぱい歌えたのだろう。 「気になった…って、美希の歌、そんなに絶望的にへたくそだった?」 うつむき、視線を床に落とし、口に手を当てて悲しげに頭を揺らす。天然自然は常に人工物の五倍の価値を持つ。計算した仕草でないからこそ、その悲哀の態度は完璧だった。逆らいがたかった。 「あー、えっと…そうじゃないよ」「嘘、美希の歌って下手なんでしょ、聞きぐるしーんでしょ、正直に言ってくれていいんだよ」 「そ、そんなことはないけど、歌はまあ上手だったよ」 美希は瞳だけを滑らせてこちらを見て、「ほんと?」と言った。ああ違う、そうじゃない、何なんだこの流れはっ。 「美希ね、声優の専門学校に通ってるの。だからボイトレを兼ねての歌の練習は欠かせないんだよ」 「へえ、声優ね、確かにいい声してるものね…」 でもね、と、そこでまた視線を少し沈める。 「美希あんまり練習とかやりたくないの。カラオケは好きだけどね。口をいいーって指で広げて歌ったり、ものっすごく高い声を1分ぐらい出し続けたり。疲れるしさ、かこ悪いよね。で、先生にそう言ったの」 言ったんかい。 「先生ってば困った顔してたけどね、じゃあカラオケでもいいから、とにかくたくさん歌いなさいって」 アバウトな指導である。というより、どうも彼女は特別扱いされているのではなかろうか? 確かに天使のビジュアルと天国の声。そしてこのゆるい性格。ビシビシ鍛えるより、大草原でおおらかに育てた方が伸びるのは誰でも分かる。 「まだまだ自分で納得できるほどうまく歌えないけど、きっとすぐ上手になると思うの。美希って才能あるんだもん」 「そ、そうなんだ」 「お隣さんが応援してくれてると思うと、きっと頑張れると思うな。これからよろしく、なの」 上半身全部を使うような圧倒的な笑顔と共に右手を差し出してくる。僕はその手をとって握手を交わした。誰か答えて欲しい、僕は彼女を応援するだなんて口走っただろうか? うん、口走ったかもしれない。もうあまり自分の記憶にも自信が持てない。 ああもう、どうにでもなれ。 第二章 ※ 僕の仕事は夢を見ることだ 困るのは想像が途切れないこと 目覚めてもなお夢が続き、何も手につかないことなんだ                   スティーブン・スピルバーグ ※ アイマスMADを作るにあたって最初になさねばならなかったことは、「MADとは何か」ということを体感的に理解することだった。それは従来の意味での映像作品とは少し違う、ネット独特の表現形態であるようだ。 MADムービーを構成するものは編集と合成である。その作品を構成する映像素材や音声素材は多くが世界にすでにあったものであり、それらを組み合わせ、完成されたものに新たな意味を付与する作業である。 例えば怪物に追われて逃げる男がいる。フランケンシュタインのような怪物が凄い形相で追いかけてくる。前を走る男は必死の形相。時々後ろを振り返り、歯を食いしばって走り続ける。 この映像にジャック・オッフェンバックの「天国と地獄」という曲を合成してみよう。運動会でよくかかるあの曲だ。 雰囲気は一転し、男と怪物がゴールテープを目指して疾走する爽やかな情景になってしまう。そしてその落差におかしみがある。 動画を編集できる機材と、幾許かの素材があれば基本的に一人で全て作れてしまう。すべてをゼロから作り上げる映画に比べれば、その敷居は遥かに低いといえるだろう。しかし、その素材は著作権の存在するものであることが多いため、公のメディアで扱われることはほとんどない。だからこそ、ネットの普及とともにMADムービーは初めて生きる場所を獲得したのだ。 アイマス系MADの数はまだまだ少ない。明確にそれといえるものは10か20だろうか。ニコニコ動画の黎明期からアイドルマスターの動画は上がっていたが、それは単にプレイの様子や、コンサートの場面を撮影したものが主だった。 世界のどこかで、誰かがふと思う。 この子たちに、あらかじめ用意された楽曲以外を歌わせることは可能か? 最もシンプルなアイマスMADとは、一切手を加えず、編集もしないサイレントなコンサート映像を用意し、曲だけを別のものに差し替えるというものだ。もちろん曲とダンスのテンポがあっており、振り付けが調和しておらねばならず、さらに合成によって何かの意味が見出されるようなものでなくてはならない。 こういうと難しそうだが、実際のところアイマスMADの元祖はこのようなものだった。 アイドルマスター インド人を右に (http://www.nicovideo.jp/watch/sm2492) ハッピーセンセーション (http://www.nicovideo.jp/watch/sm1590) 考えてみればこれは必然といえる。芸能は常にシンプルなものから始まり、徐々に体系だった技術となって花開いていく。映画の黎明期は、駅に汽車がすべり込んで来たり、男が鷹と格闘する映像に人々は度肝を抜かれ、賞賛の拍手を送ったのだ。もちろん、それは現在もなお黄金の輝きを放つ偉大なものである。 アイドルマスターは元々アーケードゲームであり、その頃から数えればもうじき二年となる息の長いゲームだ。アイドルたちを演じた声優は、ラジオで、またPROJECT iM@Sの名の下に展開されている派生企画の中で、様々な歌を披露している。アイマス系MADの使用曲としてはまずこれが思い浮かぶ。実際、ラジオ「歌姫楽園」の中で使用された曲を使ったMADは既に数多くあるようだ。 アイドルマスター 太陽と月 歌姫楽園より (http://www.nicovideo.jp/watch/sm38709) ニコニコ動画全体でもトップクラスの人気を誇る「やよぴったん」もそうしたものの一つである。本来は「言葉のパズル もじぴったん」というゲームの主題歌「ふたりのもじぴったん」を、アイマスの企画CDの中でカバーした曲だった。 やよぴったん (http://www.nicovideo.jp/watch/sm6494) 次に、少しややこしいが、演じたアイドルとしてではなく、別のキャラを演じた状態で歌った曲。あるいは声優がいち歌手として歌った曲 を使用するのもいいだろう。これを「中の人繋がり」という。 この手のMADはまだあまり例がない。狙い目かもしれないなと思う。 アイマス系MADに使用する楽曲は、アイマスの周辺に散在する関連楽曲とのコラボレートを手始めとして、現在は各アイドルのイメージに合致した歌手の歌などが模索されているようだ。その代表格が、あのperfumeの「エレクトロ・ワールド」なのだろう。近い将来、男性ボーカリストの曲に合わせたMADも生まれるかもしれない。 僕はというと、とりあえず目下のところはただゲームを進め、ニコニコを眺める毎日だった。MADどころではない忙しさもあった。大学の授業、いくつかの新歓コンパ、生活必需品を買い揃えねばならなかったし、自炊の練習もしなければいけない。読みたい本もあったし聴きたい音楽もあった。忙しさは幸福であり充実だった。ふと息が切れるときにはアイマスMADを見て心を癒した。 アイドルマスター×ねこにゃんダンス (http://www.nicovideo.jp/watch/sm25616) これなどは映像無編集のMADではあるが、猫の衣装を身につけるなど積極的な演出が目を引く。現在のアイマスMADの世界を見るに。ただダンスの切り貼りで曲と合わせただけのMADでは再生数が伸びないようだ。衣装やメンバーに工夫を凝らし、エンターテイメントとしてサービスを尽くした動画のみが重宝される。アイマスMADを楽しむユーザーの眼は急速に肥えていき、そしてP(プロデューサー)と呼ばれるMAD製作者たちの間には、ひそかな競争意識が生まれ始めていた。 ※ がりがりがりがり 急な音にハッとして目覚める。背骨が痛いしなんだか寝くたびれている。自分の姿勢を確認すると、パソコンの置いてある机に突っ伏した まま寝ていたのだと分かる。もちろん電源は入れっぱなしで、スクリーンセーバーのwindowsマークが旗のようにたなびいている。 がりがりがり それはマナーモードにしていた携帯電話が、机の上で震える音だった。液晶には見覚えのない番号。 「ふわい…もしもし?」 「なに寝ぼけた声出してるのよ! もう朝の10時過ぎよ!!」 声が頭蓋骨の中を走り抜けて、僕の意識レベルをむりやり引き上げる。 「えっと、く…釘宮さん?」 「そーよ! いいから今すぐ秋葉原に来なさい! 11時までに! ラジオ会館の2階! 一秒でも遅れたらぎゅーーーってするからね!」 通話はいきなり切断される。僕は相手の名前を呼ぶだけで精一杯だった。 また携帯の液晶を見る。 SUN 10:22  そうだった、昨日は居酒屋のバイトが終わった後、家に帰ってずっとニコニコ動画を見てたんだった。 服装も昨日帰った時のままである。 顔と髪を洗って、歯を磨いて、服をすっかり着替えるのに10分と見積もる。駅までタクシーを飛ばして、いいタイミングで電車が来たとしてもギリギリ間に合わないかもしれない。 と、そこで僕は自分の携帯を見つめる。頭上に浮かぶ疑問符。 「番号…教えたっけ?」 ※ 秋葉原駅の電気街口を降りると、八階建てのラジオ会館が人々を出迎える。その一階を飾るのは、あまりにも鮮やかな黄色地に真紅で描かれたラジオ会館の文字。ここを通過するとき、僕たちは常態の世界より秋葉原という異界に侵入することを実感する。この看板はいわば鳥居のような働きをしていた。 2階、階段のそばに伊織はいた。腕を高い位置で組んでじっと観葉植物を睨んでいる。なぜか色の濃いサングラスをしていた。 「やあ、こんに」「遅い!」 一喝である。熊でも逃げ出しそうだ。 「何時だと思ってるのよ!」 一分前に時計を確認した時は11:04だった。 「ご、ごめん。でも急にどうしたの?」 そう言うと、伊織はちょっと周囲を気にしながら小声でささやく。 「今日は一人で行動したい気分なのよ、ちょっと付き合って」 ? なんか矛盾することを言われた。 伊織は僕の手を引き、歩き出す。僕も後をついて行く。 どうやら買物に付き合わせたいようだった。 ラジオ会館内をしばらくうろついてパソコンを物色し、外に出てすぐまた別の電気店へ。伊織はやはりお嬢様なのか、支払いは全てカードである。あの真っ黒なカードは何なのだろう、提示した途端に態度を変える店員が何人もいた。 大型電気店の他にも、秋葉原駅の近くで屋台を広がる怪しげな電気店も覗いていた。秋葉原は元々闇市の街だったと聞くが、その一角だけは当時の雰囲気を今に伝えている。屋台にぐるぐると巻きつく、呪いの髪の毛のようなケーブル類。一つ一つビニールに封じられた、パソコン向けの麻薬のようなCPUの小袋。 伊織は僕と一緒に部品を見積もりながら。時折「これ、どう思う?」などと質問してくる。下手なことを言おうものなら冷笑を浴びそうだったので、それがケーブルの時は 「うん、被覆ビニールの手触りがいいね」とか それがヒートシンクの時は 「色からして涼しげでいいよね」などと適当に答えていた。 すると伊織は 「へえ…分かってるじゃない?」 などとしきりにうなずいて、また部品の物色に戻る。こんなのでいいのか? 買うものはといえば、キーボードに外付けHDD、メモリーにマザーボードに液晶モニターにビデオカード、その他、僕には用途が分からないようなチップや金属部品なんかをごちゃごちゃと大量に買っている。買ったものは郵送にしているが、小さなチップ一枚などは僕に持つように指示する。小物の積み重ねとはいえ、夕闇が迫る頃にはかなりの重量に達していた。 最後にコンビニに行き、紙袋に4つ分の荷物もまとめて郵送する。それにしても凄い量だ。パソコン5台分ぐらい買ったんじゃないか? 「ずいぶん買ったね」 「そうね、今日の所はこんなものね、やっぱりチップ関係だけは秋葉原じゃないとダメだわ」 「じゃ、僕はこれでぐえええっ」 背後から襟首を掴むのはやめて欲しい、気管が潰れる可能性は皆無じゃないから。 「何言ってるの、お礼ぐらいするわよ、もう夕方だし食事に行きましょ」 「食事? いいけど、驕ってもらうのはいいよ、女の子に出させるのは恥ずかしい」 「気にすることないじゃない。いいから行きましょ」 僕は肩をすくめて、じゃあ、と指を伸ばす 「あそこで一度食べてみたいんだけど」 ※ 夕闇がより闇の濃さを増していくに連れて、秋葉原の町並みは鮮やかな光に色づく。他の都市の夜景にはない色が混ざり、独特の妖しげな気配をはらむ。 「まったく、ガキねー」 つまらなそうにそう言って、伊織は前菜を口に運んだ。テーブルにはワインが置かれているが、外見がとても幼い伊織がそれを飲むと、そのたびにちょっと「いいのか?」と不安な気持ちになってしまう。 「ホテルの最上階でディナーだなんて、発想がお子様じゃないの」 伊織にお子様と言われても、腹が立つというより何かのジョークにしか思えない。 「いやー、さすがに美味しいね」 「普通よ普通、ワインは明らかに飲み頃を過ぎてるし、オードブルの見てくれはダサいし、これならこないだのアキバ焼きの方がずっと美味しいわ」 そんなもんだろうか。正直なところまったく未経験な味なので美味いかどうかよく分からない。 まったくの普段着である僕はフロントで一度止められたのだが、伊織が例の黒カードを見せてぼそぼそと耳打ちすると、上から落ちてきたみたいな勢いで支配人がすっ飛んできた。 地上11階のホテルラウンジ、他にお客はゼロ。まだ夕方の6時だし早すぎるのか、それともまさか貸し切りになっているのだろうか。 「ねえ、一つ聞かせて欲しいんだけど」 「なに?」 なんで僕を誘ったの? と、聞こうかと思ったが、急に恥ずかしくなって咄嗟に質問を変える。 「色々買ってたけど、何か特別なPCでも組むの?」 それも気になっていたことだった、一つ一つもそれなりに高価なものだったし、何よりあの量は尋常じゃない。第三国の密輸ブローカーなみの買い込みだった。 「もちろんよ」 ふん、と鼻息も荒く、伊織は座ったままで腕を組む。もしかして早くも酔ってないか? 「でも、これは教えるわけにいかないわね。重大な…」 「あっそ、じゃあいいや」 ぷいと視線を外し、また料理に集中する。 「…え?」 十秒ほどの無音。 「…そ、そんなふうに興味ないフリすれば教えるなんて思ってないでしょうね! …だ、だめなのよ! 教えられないんだって」 「別にいいよ、いやほんと」 もはや伊織の方を見もしない僕。 「秋葉原の町をさ、両手に荷物持って何時間も歩き回ったってのに、そこで買ったもので何を作るかも教えてくれないなんてね。泣きそうだよ僕」 「だ、だからこうやって驕ってるじゃないの、これでお礼よ、チャラなんだからねっ!」 「モノで誤魔化そうってことかあ、ふーん」 「な…そ、そんな風に思ってるわけっ!!」 と、そこで、ふいに顔を上げて両手を合わせ、拝み倒すポーズ。 「ね、お願い、どうしても知りたいんだよ」 「…っ、しょ、しょーがないわねえっ、ま、まあそんなに拝み倒されたら、わ、私だって鬼じゃないことだし」 よし、成功。 伊織の声には明らかな安堵の色があった。呼吸を落ち着けるための伊織の咳払い。 「んふん。そうね、どう説明しようかしら…」 その大きな目は宙を彷徨っている。視線はやがて僕の眉間で止まる。 「こんなSFを読んだことはあるかしら? 『人間はたくさんの機械を発明しましたが、そのうち発明するのも面倒になって、やがて発明をする機械を発明しました』」 「マトリックス?」 「あれは管理するだけのコンピューティングシステムでしょ。せめてロバート・A・ハインラインぐらい言って」 まあいいわ、と伊織はまたワインを一口飲む。飲み頃じゃないとか言いつつけっこう飲んでる気がする。 「複数のキーワードから新しいものを『連想』したり、情報を『統合』して結果新しいキーワードを生むようなプログラムは昔からあるの。ただ、人間のような『ひらめき』と『勘』は不可能だった。それは人間が自分の脳の構造すら理解していなかったせいもあるし、単に物量的な演算能力の向上では、ケーブルとコンデンサがネズミ算式に増えるだけで、とても目的の水準には届かなかったからなのね」 僕はうなずく。頭の中で必死に話を理解する。 「問題はソフトウェアだったのよ。効率的なソートのアルゴリズム。命令文の簡略化、並列処理における適切な役割分担。ちょっと変態じみた連中がいっぱい集まってね、とうとう知性らしきものが生まれたのよ」 「へえ…」 「アドバンシング・メカニカル・インテリジェンス 進化する機械的知性。これは凄いものなの。プログラム列にすればわずか10メガバイトほどの文字列に過ぎないけれど、明確に自己新化し、教えていないことを知っていた。コードネームで『AMI』と呼ばれたそれが、盗まれたの、変態たちは皆殺し」 「は?」 いきなりの急展開だ。 「それで、関連資料とか研究所とかも全部爆弾でドカンといっちゃったんだけど、その研究が断片的ながら流出していたの」 「生き残りってこと?」 「そうじゃないの。開発段階から少しずつ情報をリークして小銭を稼いでた変態がいたのよ。その人も亡くなったらしいけど、研究成果の一部はネットにも流れた。でも、あまりにも複雑で奇っ怪なそのメソッドを理解できる人間がいなくて、やがてそれは忘れられちゃったのね」 その当時? 忘れられた? 「あの、それって何年前の話?」 「設計図がネットに流出したのは1972年」 「35年も前じゃないか!」 その当時ネットなんてあったのか? 僕が大声を上げると、伊織はなんて愚かなんだという目で僕を見た。この目はちょっとこたえる。 「それが何? プログラムの方法論なんて根源的なところはこの60年間ほとんど進化してないのよ。だからこそあのメソッドの神秘性に誰も気づけなかった。そこでこの私が登場するわけ」 「つまり…君がそのメソッドを解読して、その、人工知能を作ろうとしているわけ?」 「ん」 伊織は自信たっぷりに頷いた。 「取り組んでみると大変な作業よ。既存の回路じゃそのメソッドの100分の一の性能も引き出せない。仕方ないからC++でそのメソッドを再現するようなプログラムが必要だったの、つまりOSの形に直さないといけなかったのね。完全無欠のプログラムも、数テラの容量が必要な化け物みたいなOSになっちゃった。メタモルフォス・A・M・I、通称『MAMI』。奇跡に擬態するコンピュータよ。言っとくけどね、私が天才だからこそここまでできたんだからね」 僕はもちろん分かってるよ、と言って苦笑する。 「じゃあ、そのOSを乗せるためのパソコンを組むんだね」 「そ、よくできました」 もちろん簡単に信じられる話ではない。だが、冗談で買えるような量のパーツではなかったことも事実だ。 「まっ…、どうせ趣味で作ってるんだけどね、でも助かったわ、今日でだいたい『中身』に必要なものは全部揃いそう」 伊織は席を立った。たぶんトイレだと思ったので何も言わない。僕の横を通り過ぎるとき、伊織はほとんど聞き取れない声で、 「きょ…今日はありがと…」 と言った。 どういたしまして。 伊織が席を立つと、この広いレストランフロアに僕一人になった。それにしても本当に閑散としている。そういえば、さっきから次の料理が全然来ない。オードブルの皿はカラになっているのに下げにも来ない。何せ僕はコース料理なんて初めてだったのだから、その時それが意味するところに気づけなかったことを許して欲しい。 背後から、僕の両頬に手が添えられた。香水の匂い。あまりにも柔らかい手。 「……」 僕は微動だにできない。視界の両端にはマニキュアを塗った長い指、その指が左右それぞれカミソリの刃をつまんでいる。 「お静かに願います。大声を出しても無駄です。この最上階の11階と直下の10階は完全に人払いが済んでいます」 実に事務的な口調である。カミソリの刃は僕の眼球のすぐ真下にあてがわれる。 「あなた…もしかしてサトウさん?」 「はい、佐藤律子と申します。お嬢様お付きの侍従長でございます」 つまりメイドさんか。メイドさんってこんな殺気をかもすもんだっけ… 「伊織は?」 「不用意にお嬢様を名前で呼ばれない方がよろしいですよ。先ほども随分親しげに会話されていたようですが、長年つき従った侍従として嫉妬を押さえがたいのです」 カミソリの刃が僕の皮膚の表面をそっと滑り、生ぬるい感触が頬から首のほうへ降りていく。出血しているのだろうが、刃が鋭すぎて痛みを感じない。 「お嬢様はお手洗いに立たれる途中で保護させていただきました。ああご心配なく、ここの会計は私どもの方で済ませております」 「食事が終わるまで待ってくれてもいいのに」 「申し訳ございません。我々は可急的速やかなる行動を義務付けられているもので」 「それは伊織がお嬢様だから? それとも伊織の言ってた『MAMI』とかのせいかな」 「そこまで聞いていたのですか」 カミソリの刃が肉に食い込む。さすがに少し痛くなってきた。 「ご理解ください。お嬢様は保護されるべき存在なのです。それは高貴なる血筋のためでもありますが、何より伊織様の世に二つとない才能のためです。『MAMI』の完成が近づくに連れてどうも周囲が騒がしくなって、我々も警戒しているのですよ。妙なエージェントがうろついているという噂もありますし」 …… 「そういえば釘宮さんはなぜ僕の携帯番号知ってたの? あなたが調べたの?」 「はい、お嬢様と接触した人間は全て調査の対象となります。お嬢様はお一人で行動されることを好まれるため、普段は遠くから見守っているだけなのですが、今日は不覚にもまかれてしまいました。こんなことならあなたの番号など教えなければ良かった。どうしてもあなたと買物に行きたいというから許可したのに、まさかそれが我々の管理の外でのこととは」 なるほど、『一人で行動したい気分だから付き合って欲しい』というのは、つまりこのサトウさんから離れたかったということか。確かにこの殺気に見張られていたんでは落ち着かないだろう。 伊織はどうも、一人になりたいと言いつつも、本当の意味での一人では行動できないようなところがある。それは籠の鳥で育てられたお嬢様だからか、あるいはやはり、自分が特別な立場にいる人間なことを本能的に感じているからだろうか。 「この間パソコンショップで、釘宮さんの上にディスプレイが落ちてきたの知ってる?」 「はい、存じております。その節はあなたに助けていただいたそうで、大変感謝しておりますわ」 「あれは偶然だと思う?」「まさか」 サトウさんの声は微動だにしない。全ての質問をあらかじめ知っていたと言わんばかりだ。 「だから警戒しているのです。今朝、伊織様を見失ってから今までの、我々の心中をご想像できますか?」 サトウさんの手が僕の尻ポケットに侵入ってくる。そこから取り出されたのは僕の携帯電話、今朝、伊織からの呼び出しを受けた電話。 凄まじい衝撃。 その携帯電話を、刃渡り20センチ以上のアーミーナイフが一撃する。悲鳴を上げてきしむ白木のテーブル。鮮やかに切断される僕の携帯。 「お嬢様には二度と接触されないように」 そして僕の耳元で、ゆっくり10数えてください、と言い置いて、それきり背中から気配が消える。 僕は6まで数えたところで振り向く。もう誰もいない。世界に僕一人になってしまったような、孤独。 ※ 電車を乗り継ぎ、家の前にまで帰りついたときは、あたりはすっかり暗くなっていた。 部屋の前で美希に出会う。 「や、こんばんわ、なの」 笑顔で手を振って近づいてくる。至近距離まで来ると、急に驚いて身を引く。 「ど、どうしたの? ほっぺたから血、出てるよ」 出てるかもしれない。一応ハンカチでぬぐったのだが、傷口がきれいに切れすぎているせいか、微量な血液が少しずつ染み出してきている。 「何でもないんだ、気にしないで」 「気になるよ〜、猫さんに引っかかれた? それともちわげんかのすえのにんじょーざた?」 「まあ、そんなとこだよ」 「ええええっ!」 美希は口元に両手をあてて驚く。 「…けっこうフレッシュマンなんだね〜…」 「フレッシュマンの使い方間違ってない…?」 僕は自分の部屋の扉を開ける。朝起きてすぐ伊織に呼ばれたんで、部屋の中は散らかったままになっている。 「まあ、ほんとに何でもないんだ。ちょっと手当てもしたいから、またね」 「うん、またね」 美希は階段の方へと去っていく。これから出かけるところだったらしい。コンビニでバイトしてるとか言ってたから、それだろうか。 部屋に戻って、パソコンの電源を入れてから洗面台へ。 顔を洗う。水に混じって流れていく赤い渦。けっこうな量の出血があったらしい。 僕は伊織のことを思う。伊織が最後にありがとうと言ったことを思いだす。 今、どこで、何をしているのだろうか。 もう分からない。おそらくもう会うことは出来ないだろう。できることなら最後に聞きたかった。なぜ今日、僕を誘ってくれたのか。 パソコンの前に戻り、半ば無気力なままニコニコ動画にアクセスする。あまり見る気もなかったのだが、どうも習慣になってしまっている。 アイマスPVの数もずいぶん増えてきている。ブームに誘われるように現役のプログラマーだとか、確かな腕を持つSEが続々参入しているとの噂もあるようだ。 また、アイマスMADがランキング上位に来ている。 タイトルは、 アイドルマスター 阿修羅姫(ALI PROJECT)  (http://www.nicovideo.jp/watch/sm246990) 第三章 ※ 私はまだ映画を分かっていない                         黒澤明 ※ アイドルマスターがニコニコ動画で広く認知されるにつれ、11人いるアイドルたちにそれぞれ性格付けが行われるようになってきた。 いかにも清純そうな正統派の萩原雪歩や、幼くて可愛い高槻やよいなどは元から人気も高く、すぐに認知された。 「エージェント夜を行く」という曲の中で、「溶かしつくして」と歌うべきところが「とかちつくちて」にしか聞こえないため「とかち」と呼ばれている双海姉妹などもそうだろう。若くて可愛いというのはあらゆる場面において有効だ。 アイドルマスター とかちラーメン大盛り 〜望みのままに〜 (http://www.nicovideo.jp/watch/sm241) 雪歩のキャラを明確にするようなMADはまだあまり出ていないが、どんな曲やダンスでもソツなくこなす優等生タイプのため、トリオユニットの華として活躍している。 アイドルマスター LovePower(乙女はお姉さまに恋してるOP) (http://www.nicovideo.jp/watch/sm213988) また、水瀬伊織の声優は釘宮理恵という、いわゆるツンデレ役ばかりをやっている人で、伊織の場合は特にキャラ付けをする必要もなく、ゲーム内の設定のまま攻撃性とお嬢様という認識が固定されている。 他にも如月千早はアーティスト志望のキャラであり、また三浦あずさはゲーム内で最高クラスの歌唱力を発揮していたため、MADにもそれを生かしたものが多い。ちなみに三浦あずさというキャラは短大卒、20歳にしてアイドルを目指すという移植の設定のため、よく年増呼ばわりされているそうだ。 アイドルマスター 如月千早 オリビアを聴きながら (http://www.nicovideo.jp/watch/sm19383) アイドルマスター(私がオバサンになっても) (http://www.nicovideo.jp/watch/sm62551) これらアイドルの個性は基本的に原作に準拠しているが、天海春香はちょっと様子が違う。 春香はときどき「黒春香」あるいは「春閣下」などと呼ばれる。黒い魔性をその内に秘め、愚かなる民衆をひれ伏さすカリスマ。支配と篭絡、君臨し統治する存在。そのような設定はゲーム内には「ない」。 黒春香なる存在が生まれた経緯はこうだ。もともと天見春香はアーケード版の主人公であり、「アイドルのとき以外は普通の女の子」というコンセプトだったため、個性の薄い感があった。カラオケが好きでお菓子作りが好き、少し天然でドジな一面あり、まあ、普通だ。 ビジュアルも黒髪にリボン、そして歌唱力もさほど良いわけではなく。一時は本当に人気がなかったらしい。だが、声優を務める中村繪里子がラジオで放つ毒舌や爆弾発言、それを受けて「黒姫」などとあだ名されていたことを受けて、春香にも黒い一面があるという設定が持ち上がる。他にも無個性と虐げられていた春香が復讐に目覚めたために生まれた、とする説もあり、判然としない。おそらくは複数の要素があったのだろう。 生まれるべくして生まれたのだ。 THE IDOLM@STER アイドルマスター 超ポジティブ!守銭奴ver. (http://www.nicovideo.jp/watch/sm10409) さて、実はこの黒春香についてはニコニコ動画開始以前、「THE iDOLM@STER」がアーケードのみだった時代からあるらしい。それは動画となることによってアイマスMADファンに広く認知され、大きく発展することとなる。 ※ 僕の話をしよう。 高校三年の夏。僕はどこにでもいるような、ごくありふれた映画少年だった。 僕はあらゆる意味で映画が好きだった。映画のために生まれてきたと本気で思っていた。僕のいた高校には映研など無かったが、そんなことは問題ではなかった。有志を集め、機材を少しずつ揃え、脚本を何本も書いた。 最初は数分間のショート・ショート「迷子の兎」。第二作は特撮技術を用いた心理的ホラー「格納庫天国」。 そして三作目が37分の大作「春の雪」だった。 主演を勤めるのは同じ学年の女子、落合雪歩。どうでもいいがアイドルマスターの萩原雪歩にちょっと似ていた。肌の色が感動的なほど白く、ちょっと気が弱そうで引っ込み思案なところがあったが、その演技には確かな存在感があった。 季節は春、まもなく桜が咲かんとする季節。 病に冒された少女・雪歩が、入院先で同じ病を抱えた男と出会う。二人の病気はシリアス&ヘビー。生きるか死ぬか五分五分の難病だった。男が自分の病に絶望しきっていることを感じた雪歩は、必死に励まし、勇気づける、おおまかなストーリーはそんなところだ。 ちなみに「男」を演じたのは僕ではなくて一年生の後輩。精神的に幼いイメージを出したかった。 その映画のクライマックス・シーン。真夜中に男がひそかに病院を抜け出して、川原の桜を見に行く。桜の根元で咳を繰り返しながら座り込む男のところへ雪歩が現れる。男は自分よりも症状の軽い雪歩に対して罵声を浴びせ、病院へ帰ることを拒否する。 ここで雪歩に要求された演技は「母性」だった。大きな母性で何もかもを包み込むような赦し。死を恐れて泣き喚き、死を憎んで憤怒することへの癒し。雪歩はよくそれを表現していた。雪歩が全身全霊をこめて演技していることが、傍で見ている僕にも伝わってきた。 そして編集。昔ながらの8ミリでの撮影だったため、編集は僕しか出来なかった。必然的に編集の全権が僕にゆだねられることになる。 ここで、僕はこのフィルムに手を加えたくなった。母性と優しさ、それだけでは足りない気がした。 僕がこのフィルムに加えたのは「怒り」 緊張感のあるカットの連続。時間が飛んだかのような急激なカットの移動。雪歩の声を強調させ、背景音は無音からわずかな風の音に変更。雪歩が男の頬を叩くシーンを強調、それは悲しいためではなく、病から逃げようとする男への明白な怒り。 映画の中の雪歩は、もちろん病に怯えていた。死ぬのが怖かった。それでも毎日胸を張って、懸命に戦っていたのだ。男への怒りは、その雪歩の内面的な強さを表現するものになった。 そして試写会。 なんだかんだで、製作に関わった人間は8人にまで増えていた。 脚本とは異なる雰囲気となったクライマックスの演出に、最初は仲間達も戸惑っていたようだ。だが最後まで見終えたとき、皆やはりこれで良い、このほうが良いのだという感想を持ってもらえたようだ。 雪歩はというと、特に何か明確なコメントはせず。静かに座ったまま、やっと完成しましたね、とだけ言ってにっこりと笑った。雪歩はいつも物静かで、賛辞であれ批判であれ、あまり何かに対して声高にコメントするような人間ではなかった。春の日差しのように穏やかな女性だったのだ。 この映画は県内のコンペディションに応募することとなり、見事に三位入賞となった。セミプロも参加する大規模なコンペディションだったから、とても名誉なことだった。それが高三の夏、夏休み目前のこと。 そしてコンペディションの翌日、雪歩は僕たちのサークルから抜けた。 大学入試で忙しくなるからというのがその理由だった。実際、進学校だったうちの高校ではそろそろ勉強漬けの毎日を始めなければならなかったのだが、それにしても唐突だった。 僕は精一杯引きとめた。急すぎる、君には才能がある、まだ撮ってみたい脚本もある。勉強の邪魔にならない程度で良いから…。 雪歩は短く一言、呟いた。 その一言がどんな言葉だったのか、ここには書きたくない。 僕はその一言に強い衝撃を受け、言葉を見失い。一礼して部屋を出て行く雪歩に何も言えなかった。わきの下にじっとりと汗をかいていた。 雪歩にとって、あの映画に出てくる自分は自分ではなかった。自分の演じようとしている存在ではなかった。よく似た他人。自分の知らない自分。 それはつまり、僕の編集が受け入れられなかったということだ。死を恐れる男への怒りを、内面的な強さを表現したあの編集は、雪歩のイメージとは違っていたのだろう。そして、思うまま表現したいものを演じられると思っていた映画の世界で、編集一つでそれに違う意味が付与されるという現実を受け入れられなかったのだ。 この雪歩の意見に対して、僕は僕なりに反論したいこともある。映画において、最終的にどんな映像を生み出すかは俳優の演技だけが決める問題ではない。脚本家が、編集担当が、音楽担当が、衣装担当が、それぞれの感性を盛り込んで一皿の料理を作る。それが映画だと思う。 それに、不満があるなら試写会の時に言ってくれれば直しようもあった。あの時点ではまだ切り離したフィルムも全部保存してあったのだ。おそらくは、雪歩自身もあの編集で正しかったと思っているのだろう。だからこそ、悩んだのだろうけど。 雪歩は僕の前から去り、僕もそれ以降結局何も撮ることはなく、ただ流されるままに受験のことだけを考えるようになった。 ※ アイドルマスター 阿修羅姫(ALI PROJECT)を見たとき、僕の胸に去来したのはあの苦い記憶だった。まだ一年にも満たぬ過去。鮮明すぎて胸が苦しくなる思い出。もちろん僕は黒春香に対して否定的なわけではない。むしろ素晴らしい発見だと思うからこそ。あのときの雪歩こそ間違っていると思ってしまうからこそ、苦しかった。 黒春香、本来は無い属性。白いものすら黒く見せる編集の妙。 黒春香動画に多く見られる技法に「ラ・ニュイ・アメリケンヌ」がある。これはフランス語で、直訳すれば「アメリカの夜」。夜間のシーンを日中に撮影するため、カメラにフィルターをかけたり、上に天幕を張ったりして暗闇を作り出す技法だ。これは単純に日中のうちに撮影を進めるための技法ではなく演出上の意味もある。 明らかに昼間のシーンであり、観客にもそのことを明言していながら、なお画面が異常に暗いという演出がある。これはすなわち、画面を暗くすることで場面の緊張感を高めたり、登場人物たちの内面の闇を表現しようとする試みである。 他にも、声を機械的に変化させて低音を強めたり、突然フラッシュを挿入したり、こうした技法はすなわちホラー映画やサスペンス映画に通じる。アルフレッド・ヒッチコックの「ダイヤルMを回せ」は、その全てが詰まっている傑作だ。 アイドルマスター 春香 さよならを教えて (http://www.nicovideo.jp/watch/sm322692) またしても僕は戦慄していた。アイマスMADの世界は怖ろしいほど深く、そして、広い。 ※ 僕は、また忙しさの中に埋もれていった。大学が忙しいのももちろんだが、「THE iDOLM@STER」のプレイがどんどん楽しくなってきたことが大きい。一周目は散々な結果に終わり、二周目は最終関門のドームコンサートで失敗。三周目でようやくグッドエンディングを見ることができた。 アイドルたちのコンサート場面はキャプチャしてパソコンに保存していく。XBOX本体のHDにも、いつでも色々なコンサートを見られるように大量のセーブデータを作っておいた。 怠惰に、しかし勢いよく流れていく日常の中にも、小さな渦のような事件がいくつも起きる。美希に無理やりカラオケに付き合わされたり。「バベル」を最終日に見に行って、あり得ないほど感動してしまったり。東京タワーに登ってみたり。夜中に帰ってくると美希がアパートの廊下で寝てたり…なんか美希絡み多いな。 ともあれそんな小さな渦に巻き込まれ、それを過ぎることで、時計の針が少しずつ回転していく。 僕は風車を回すようにひたすら日常を繰り返し、「THE iDOLM@STER」をプレイし、ニコニコ動画でアイマスMADを見て構想を膨らませた。僕は日常に沈み、日常の中に静む。 携帯が鳴った。ディスプレイを見ると見慣れない数字。 いや、違う。 僕はハッとなる。この数字はどこかで見ている。そう、確か、あのとき伊織からかかってきた電話、その番号ではないか? そのとき僕が使っていた携帯は真っ二つになったが、今はナンバーポータビリティというサービスがある。新しい携帯でも以前の番号がそのまま使えるサービスだが、これが始まったのは2006年の10月である。要望は昔から出ていながら、なぜこんなに長く待たねばならなかったのか、きっと海よりも深い事情があるのだろう。 僕は電話に出た。 「もしもし?」 「御機嫌よう、佐藤律子ですが」 僕は電話を切った。 十秒後、また呼び出し音が鳴る。 「なんですか、僕は忙しいんですよマッタク」 「…………き、斬りますよ貴方」 声が怒りに震えている。僕はちょっと愉快な気分。 「だから何の用です、早く言ってください」 「…正直にお答えください。そこにお嬢様はいますか?」 なんだ、伊織のやつまたいなくなったのか。 もちろん伊織はこの部屋にはいない。テレビ画面の中に、今プロデュース中の水瀬伊織はいるが。 「サトウさん」 「はい」 「釘宮さんがここにいるかどうか答えますから、『大きな栗の木の下で』歌ってください。大声で」 「……っ!」 「そのぐらいしてもいいと思うなあ。僕このあいだカミソリで切られたんですよ。その意趣返しぐらいさせて欲しいんですが」 受話器の向こうが沈黙する。続いて荒い息。小さく「あ…ぐ…」と、毒物を飲んだ人のようなうめき声。 それは突然始まった。 「おーきなくりのー!!!」 ※ 「はい、ありがとうございます。で、質問の答えですが、釘宮さんはここにはいませんよ」 「確かですね?」 「サトウさんにあそこまでさせて、なお嘘をつくほど太くないです」 「…分かりました。この電話のことは忘れてください」 通話が切れた。 僕は考える。今の会話からどんなことが読み取れる? 番号の先頭は080、携帯電話からの通話だ。伊織の携帯からなぜサトウさんが電話をかける? 最初、僕は伊織がサトウさんの監視下から「逃げ出した」のだと思った。だがそうではない、それなら僕にあんなストレートな質問はしない。伊織が逃げて僕のところに来ていたなら、サトウさんからの電話には嘘をつくよう頼むに決まっているからだ。 つまり、伊織は普通に出かけて、そのまま帰ってこない? いや違う。どこへ行くにしても、サトウさんは遠くから監視するはずだ。 ではどんな状況が考えられる? 僕は脳を雑巾のように絞り、そして見出す。 そうか、伊織はサトウさんと一緒にいたが、何かトラブルがあって離れ離れにならざるを得なかったのだ。そして伊織は携帯を持っていく余裕もなく、一人で逃げるしかなかった。そしてトラブルに一段落がついた後、サトウさんは伊織を迎えに行こうとしているのだ。 僕は思い出す。伊織の語っていた『MAMI』という脅威のプログラムのことを。 かつてその原型を研究していた者達は皆殺しとなり、研究施設も文書もすべて「爆弾でドカンといった」らしい。 正直なところ半信半疑だったが、現にサトウさんのような人が傍についていることからして、伊織の周囲に暴力的なトラブルが予想されていたのは事実だろう。 ふいに伊織の姿が脳裏に蘇る。いても立ってもいられなくなるような、急激にせりあがってくる焦燥感。 だが、僕に何ができる? 伊織とは一・二度会っただけのこの僕。暴力的なトラブルにも対応できない。人探しなんてしたことのない僕に何が? まあいい。 細かなことは行動してから考えれば良い。 僕はXbox360の電源を落とし、服を外出用に着替えた。 ※ 向かう場所は、もちろん秋葉原と決めていた。おそらくサトウさんもそこは探すだろうが、僕だって自分の目線が届く範囲ぐらいは探せるだろう。僕の記憶にある限りの伊織は、あの街を抜きにしては考えられない。 駅へと向かう途中で、突然名前を呼ばれた。 「やあ、久しぶりだね」 真だった。ストレッチ素材の黒のタンクトップにレザーのハーフパンツという、なかなかに若さって素晴らしい格好をしている。顔はなぜか不機嫌そうだ。 「ああ真か…久しぶり」 「ひどいじゃないか、キミ、チケット使ってないだろ?」 チケット? ふいに思い出す。引ったくりの一件のとき、真から貰ったチケットをまだ使ってなかった。今はたしか…二枚とも四つ折にして財布のカード入れの部分に突っ込んでいたはずだ。 すっかり忘れていた。 「もうダンスイベント楽日なんだよ。来てくれてるかと思って毎回客席見てたのにいないから」 「ご、ごめん、その、一緒に行ってくれる相手が見つからなくてさ、一人でクラブなんか入ったことないし」 脳裏に美希の顔が浮かぶが、とりあえずそれは無視。 「そんなこと気にしなくて良いのに。一人で来たなら僕がついててあげたよ。今回のイベントは大成功なんだよ。連日大入り満員。見たら絶対ハマるって自信ありなんだ」 「ごめん」 僕は腰を曲げて深々と謝る。忘れていたのだから僕が一方的に悪い。真はうん、素直でよろしいと笑って、先ほどとは一転、夏の空のように輝かしい笑顔になった。 「じゃ、行こうか」 横に回り、腕を組まれる。 「え?」 「いや、だからダンスイベントが楽日なんだよ。あと1時間ほどでスタート。ボクたちのチームは順番で言うと最後だからまだ時間あるけどね。ボクもこれから行くつもりだったんだ」 「いや、その」 「まさか、用事があるとか言い出さないよね?」 腕をぎゅっと真の方に引き寄せられる。その柔らかさに、一瞬これまでの人生すべてを忘却しそうになる。 いや、いかん、伊織がピンチなんだ。多分。 「ご、ごめん、どうしても外せない用があるんだ」 「あー聞こえない。さー行こ行こ」 ものすごい力である。腕を振り解こうとするが、革ベルトで拘束されてるみたいにビクとも動かない。この筋力であの肌の柔らかさとは、天は真にニ物も三物も与えている。 「自分の分の電車代ぐらいは払ってよね。原宿までだから800円ちょいかな」 冗談じゃない。秋葉原と原宿じゃ山手線の反対側だ。 「わ、分かった! 行く、行くからとりあえず手を離して!」 大声で訴えるが聞いてくれない。全然方向違いの電車に引きずり込まれるまでこのままだろう。 考えろ。この現状を打開する方法を。 まず電車にはSUICAで乗れる。この組まれた腕さえ振り解いてしまえれば、後は全速力で駅の改札を抜け、電車に乗れば良い。電車が来ていなかったとしても、来るまで数分間時間を稼ぐぐらいは可能なはず。 この腕をどうやって解くかが問題だ。単純な腕力ではたぶん圧倒的に負けている。口先でごまかすにはもうタイミングが遅い。まさか女の子に手を上げるわけにも…。 ……。 手を上げるわけにも…。 ……それしかないか…。 「真」 「ん? なに?」 「ごめん、後でどんなお詫びでもする」 開放を求めるならまず拘束されるべし。放とうと思うならまず矯めるべし。つまりは押して駄目なら引いてみる。離れたいなら、まず触れる。 僕は開いている方の手で、素早く、的確に、真に、真の左のほうに 触れた。 「っきゃあああああっ!!」 瞬間、腰のひねりと同時に放たれる左アッパー。僕の耳をかすめて天へと抜ける。冷や汗が頬をつたう。今のを喰らったら冗談でなく丸一日が失われかねなかった。 「ごめん!」 僕は真に背を向け、全速力で逃げ出した。ごめん真。サイテーだ僕は。全国の真ファンから十発ずつ殴られても文句は言えない。むしろ自ら頬を突き出して殴られ続けると約束しよう。 僕は駅舎へ駆け込み、改札を抜け、そして運良く発射直前だった電車に乗った。 ※ 別に僕の生活サイクルの中で、そんなに電子機器を買い求める機会が多いわけではないはずなのに、最近やたらとこの街に来ている。秋葉原は今日も密林のように深く、様々な感情を飲み込んで蠢いている。 さて、どこを探そうか。 パソコンショップ、電子機器専門店。まずそれは除外していいだろう。サトウさんがそこに手を回さないはずはない。 そういえば伊織の携帯電話の番号は分かっているのだ、それは今はサトウさんの手にある。電話して連携体制を取ろうかと思い至る。 でも逆効果だろう。サトウさんがこちらを気にして動きづらくなるだけだ。 そもそも、伊織は本当にこの街にいるのだろうか? それと、もしかして既にサトウさんが伊織を発見している可能性もある。 僕は秋葉原駅内の公衆電話から、080で始まる番号に電話する。 「もしもし、伊織様ですか?」 電話を切る。まだ伊織の携帯はサトウさんの手にあるようだ。ってこれじゃタダのいたずら電話だな…。 何だか不安になってきた。別のことに頭をフル回転させたほうが良い。そもそも闇雲に動き回っても埒が明かないんだし、ここはまず頭を行動させよう。 まず、伊織は電話をかけられない状況にある。 電話をかけられるなら、すぐサトウさんに連絡しているはずだ。 そして伊織は狙われている。特定の誰かというよりも、いつ誰に狙われるか分からない立場なのだ。 となるとあまり大きく移動せず、一つ所にじっとしているべきだ。この秋葉原は幼稚園の頃から来ているという伊織のホームグラウンド、誰も来ないような穴場や隠れ家も熟知していることだろう。 そして、伊織は頭が良い。重要なことだ。 秋葉原には居る、それはとりあえず疑わないでおこう。だが、誰しもが思うような場所にはいない。盲点と死角。背理と逆理。伊織ならそれができる。 これらの推測を組み合わせ、推測を積み重ねて推測を生み出す。トランプのタワーを積み重ねるような作業。この場合、頭を使うべきは僕ではなく伊織だ。うまく僕の推測の塔の上に立ってみせる、うまく僕やサトウさんに見つけ出してもらう。そんな曲芸も伊織なら…。 「…あそこ行ってみるか」 僕は歩き出す。 ※ 柳森神社は秋葉原駅を下りて徒歩5分。神田川の傍に立つ神社だ。周囲を高層ビルに囲まれた中で、ここだけ冗談のような静けさが降りている。狭い範囲に鳥居やら小さな祠やらが密集していて、なんだか込み入ってる印象なのが実に秋葉原っぽい。 その本殿を回りこんだ裏手に。女の子が一人、小さくうずくまっていた。 「…あれ? あなたが来たの?」 本当にいた。 伊織の思考を読んだ僕が運がいいのか、僕の思考を読んだ伊織が凄いのか、まあどちらも半々ぐらい偉いとしておこう。 秋葉原の中で最も伊織から遠い場所、まあなかなかの隠れ場所かも知れない。もっと見つかりにくい場所もあるにはあるのだろうが、100点の場所ではなく70点ぐらいの場所に隠れて、誰かに見つけてもらうことが重要なのだ。 本殿の影にうずくまっていた伊織は、僕を見てぱっと立ち上がり、変に慌てた仕草でスカートの裾をはたく。 「やあ、まさかホントにいるとは思わなかったよ、すぐに見つかってよかった」 「よ、よくここが分かったわね? それと、なんで私がいなくなったこと知ってるの?」 「サトウさんから電話があったんだよ、伊織は一緒にいないかってね、で、伊織がどうやら行方不明になってるらしいとピンと来て、秋葉原に来てみた」 「そうなの…なかなか気が利くじゃない、召し使いの見込みあるわよ」 僕は苦笑する。 「良かった、ケガとかないよね?」 「だ、大丈夫よ。それより携帯貸して、サトウさんに連絡するから」 「ああ、ちょっと待って、僕がやろう」 携帯をダイヤルする。080で始まる番号、佐藤さんの動きは常に迅速だ、2コールと待たずに出る。 「もしもし」 「あ、僕です、釘宮さん見つけましたよ」 「……本当ですか?」 僕は携帯の送話口のところを伊織に向ける。 「サトウさん、私は無事だから心配しないで、とりあえず車回して、ここは」 と、そこで携帯を伊織から離す。 「あ、もしもし、聞いてのとおり釘宮さんは無事です」 「どこの誘拐犯ですか貴方は」 「で、その居場所ですけどね、また一曲お願いしていいかなと、これは真っ二つにされた携帯の意趣返しというやつで」 「…なんですか、また歌ですか、こうなったら何でも歌いますよ。アニメソングですか?モーニング娘。でもいいですよ」 「米良美一の『もののけ姫』お願いします」 「…………………………………よ、よくそんな残酷な仕打ちが思い浮かびますね」 さすがに今さらあの曲は恥ずかしいよなあ…。 伊織はというと、訳が分からないといった顔で首をかしげている。 まあ、このぐらい許して欲しい。ここに来るために、僕は男としてサイテーな奴に成り下がってしまったのだから。 ※ 「はい、ありがとうございます。場所ですが、秋葉原駅近く、神田川沿いの柳森神社です」 「そこなら分かります。15分ほどで行きますので伊織様に待っていただくようお伝えください」 通話が終了する。 「助かったわ、秋葉原は路地までよく知ってるんだけど、動き回るのは危なかったから」 「一体何があったの? サトウさんが護衛についてたんでしょ?」 伊織はこめかみをポリポリと掻いて、そうなんだけどね、と言った。 「前に言ったでしょ、完全無欠のプロトコル『AMI』の研究成果は盗まれて、変態たちは犠牲になったって」 「うん、聞いた」 「私の研究『MAMI』は、断片的な情報から構成されたその複製、いくつかの組織に存在が感づかれているらしいけど、その中で研究を奪おうとするものと、研究をこの世から亡くそうとするものが現れたの。今日来たのは後者。アキバで買物してたところをいきなり襲われたのよ、アレに不意を突かれたとはいえ、サトウさんと離れ離れになっちゃうなんて」 「アレって?」 「研究を消し去ろうとする組織の刺客」 「なんで消し去るの? もったいない」 「あなた馬鹿なの? 元々の『AMI』は盗まれたって言ったでしょ、だからその盗んだ連中は今も『AMI』を持ってるのよ。そんな中で私の『MAMI』が完成しちゃったら価値半減じゃないの」 なるほど。そういうものか。 そのとき、じゃり、と玉砂利の鳴る音がした。ここは本殿の裏手にあたるごく狭いスペース。普通に参拝してれば入ってくる理由はない。 僕は全身を緊張させたまま振り向く。そこにいたのは長い髪の女性。濃い藍色のスーツ姿で、細いバイザータイプのサングラスをかけている。映画『X-MEN』でサイクロップスがかけてたアレだ。それ以外であれを付けてる人を見たことはなかった。 バイザーの表面は、光の加減なのか虹色の光が激しく左右に動いているように見える。 かなりスレンダーな体系で、表情のない口元と相まって一瞬男性かと思ったほどだ。 伊織が僕の後ろに隠れる 「…やばいわね。どうしてここが分かったのかしら、たいして頭はよくないはずなのに」 と、目の前の女性は右耳の付け根あたりから針金のようなものが伸びていることに気づく。真上に伸ばされていたそれは、突然硬さを失ったようにゆがみ、重力に従って垂れ下がり、髪の中にまぎれてしまう。 伊織があっ、と小さな声を上げる。 「! そうか、さっきの電話を傍受されたんだわ」 「傍受…って、いま携帯の電波は全部デジタル化されてるんだよ。傍受できたとしても、それをアナログ信号に直すのは携帯電話会社しか無理だ。それにどの携帯から発信されてるのか特定しないと傍受は無理じゃないの?」 「この秋葉原付近の800MHzから2GHzまでの全電波帯の通信を傍受して解析したのよ。そしてデジタル信号を解読してアナログに変換、会話内容を分析したのね」 そんな馬鹿な、デジタルからアナログへの変換は、携帯電話会社で地下のワンフロアを埋め尽くすスパコンが行っている作業だぞ。しかも会話内容を分析? スーツ姿の女性はゆっくりとこちらに近づいてくる。整った顔ではあるが、その口元は砂漠のような無表情だった。そのクールな様子が、『THE iDOLM@STER』の如月千早を連想させる。 「気をつけて! 強いわよ!」 「な、何者なんだよ! あいつは」 伊織が僕の背中にしがみついている。もしかして危機的な状況なのだろうか。この細身の女性にそこまでの脅威が? 「…『AMI』を奪った連中、それは中国政府だったと言われているわ。当時の国力ではその重要性は理解できても、メソッドのパフォーマンスを具体的に引き出すことは不可能だった。でもようやく近年になって『AMI』の力の一部を発揮できるようなインターフェイスが完成したのよ。ボディは日本やドイツから仕入れた技術で作られ、それを統制する頭脳は単に『AMI』のパターンを組み込んだプログラムをそのまま乗せただけ。 でもそれで十分だったの。『AMI』のメソッドは自分の置かれた状況を自分で把握し、その舞台に最適なフローチャートを自動で組み上げるのだから。」 ちょっと待ってくれ、そいつはつまり、カレル・チャペックの言うところの。 「汎用隠密型自律機械『千早(シャンツィアオ)よ!』」 ロボットかよ! 千早の手が大蛇が喰らいつくように伸ばされる。僕の木綿糸のように細い反射神経など問題にならない速さ。一瞬で僕の首が掴まれ、そのまま真上に吊り上げられる。 「ぐあっ…!」 「! やめなさい! 何をするの!」 伊織が威勢良く千早の胸を叩く。だがまったく動かない。僕の首は万力のような力で締め上げられている。千早の腕を僕の両手がかきむしるが、同じくまったく効果なし。両足が完全に地面から離れている。ばたつく足で千早の胸を蹴り飛ばそうかともがくが、こちらは届きもしない。 人間は頚動脈を押さえれば十秒ほどで落ちる。だが悪いことに血管を圧迫するような持ち方ではない。僕の頚骨ごと首を握りつぶすつもりだろうか。実際に早くも首の骨は悲鳴を上げている。息を吸うことも吐くこともできず、目玉が飛び出しそうなほど苦しい。どうせなら必殺仕事人に出てくる按摩屋のテツみたいに一瞬で首の骨を折ってくれ。そういえばあんな奇想天外な殺し方をするのは視聴者が容易に真似できないように配慮しているらしい。いやそんなことは今関係ない。 がん! 何か重量のあるもの同士が衝突するような音。 千早の手は緩み、僕は地面へと落下して激しく咳き込む。首にはくっきりとアザが生まれていることだろう。 「キミって、もしかしてトラブルに巻き込まれやすいタイプなのかな」 その千早の向こうに立つのは、黒のタンクトップにレザーのハーフパンツ。紛うことなき青葉真だった。手を腰に当てて、じっとこちらを見ている。 先ほどの音は何だろう。真が千早の後頭部あたりを殴ったのだろうか。まるで石でもぶつけたような音だったが、そんな手ごろな大きさの石は落ちていない。 千早が振り返り、真に向かって踏み込む。とてもロボットとは思えないほど滑らかで、早い。光速の突きが繰り出される。 だが、真はその更に上のステージにいた。半身に構え、千早の腕の側面に手刀を当てて力の流れをそらす。千早の体が大きく脇へ流れるのをとらえて、直下から拳の一撃をボディーに見舞う。千早の体が浮き上がり、そこへさらに真の右脚が素晴らしい柔軟性を見せて跳ね上がる。天に放たれる矢のような蹴り。靴の裏がまともに千早のアゴをとらえ、脚はそのまま天へと突き上げられる。小林拳で言うところの拝脚だ。ほとんど密着した状態からのアゴを突き上げる蹴り。これは回避のしようがない。千早の首が思い切り後ろにのけぞって、ごきりと嫌な音を立てる。 「人間と同じフォルムってのは隠密行動に便利なんだろうけど、弱点が人間と同じになっちゃうのが欠点だよね」 千早の体から急に力が抜ける。糸の切れたマリオネットのように、手足が不自然にくたりと曲がったまま倒れた。 「指示を出すのは頭部。実際に働くのは胴体。ならその連結部である首をひねってあげれば良い。簡単なことだよ」 冗談じゃない、あんな「ロミオ・マスト・ダイ」のジェット・リーみたいな蹴りがそう簡単に撃ててたまるものか。あのサトウさんを襲撃して一定の戦果を挙げたというロボットを、一撃で沈めるとは。 「えーと、そこにいるのは釘宮伊織さん、だね?」 真がそういうと、僕の後ろにいた伊織はハッとなり、また僕の背中にしがみつく。 「…! どうして真が伊織の名前を」 「VIPだからに決まってるよ。それにしても偶然って怖ろしいね。ボクの誘いを断ってまでの用事って何かと思って尾行してみれば、キミが伊織さんの友人だったなんて」 「あなた…どこのエージェント? アメリカ? それともロシア?」伊織が言う。 どういうことだ? そういえば、サトウさんが変なエージェントがどうとか話していたけれど。 「そんなこと言えるわけないじゃない。まあでも、ボクは中国とは違って伊織さんの殺害なんて命令されてないんだよ。できうるなら金銭的に解決するのが平和で良いんだ。『MAMI』を売ってくれると約束するなら所属も教えるけど?」 「…どこにも売るつもりはないわ。どうせ戦争に使うつもりでしょう」 「使い方については上が決めることだね、でも、素晴らしい道具があろうとなかろうと、常に戦争は起きてるんだよ。エンジニアが、自分の作った道具の生む結果について責任を持つ必要はないと思うけど」 「そういう人道的な理由もあるけど…それだけじゃないわ。そんな陳腐な使い方をされるなんて、エンジニアとして許せないの。3桁の計算しかしない人に、15桁表示の関数電卓はまったく必要ないわ」 やれやれ、と、真は首をそらしてちょっと考える仕草をする。 「ボクはこのまま伊織さんを拉致することだって出来るんだよ。キミが千早(シャンツィアオ)の襲撃であのサトウさんと離れ離れになってるなんて、こんなチャンスはそうそうない。かのフローレンシアの猟犬、仏国外人部隊上がりのあの人を相手にするのは面倒だからね」 話の流れが急すぎてついていけなくなってきてるが、ともかく僕は首を押さえつつ立ち上がり、真の前に立ちふさがる。 真はにっこりと笑う。 「でも、そんなことはしない。伊織さんはキミの友人みたいだしね。また交渉の機会を待つよ」 ハーフパンツのポケットからスポーツタイプの腕時計を取り出し、時刻を確認する。 「やれやれ、ダンスイベントはちょっと遅刻かな。キミは…チケットがあってももう満員で入れないだろうね。まあいいや、また誘うよ」 と、そこで真はちらりと横を向く。 「怖い番犬が来たみたいだ。じゃあ僕はこれで」 神社の塀に手をかけ、右腕一本で体を塀の上に引き上げる。無造作だが一般人には真似の出来ない動作だ。 あ、そうそう、と、真はこちらを振り向かずに言った。 「さっきはキミも事情があったことだし、大目に見てあげるけど、いきなり女の子の胸に触るなんて絶対にダメだよ」 と、爆弾を放り投げて塀の向こうに消える。僕は凍りつく。 ……。 ……気まずい沈黙。 「……胸を触った、って、どういうこと?」 背後からの伊織の声、おそろしくトーンが低い。怖すぎて振り向くことも出来ない。 「…ねえ、何か言いなさいよ…」 がしっ、と、髪の上に手が置かれる。そのまま、思いのほか強い力で頭をぎぎぎと回される。千早に絞められた首がちょっと痛いが、今は伊織の氷のような目のほうがシリアスな問題だ。 そこへサトウさんがやってきた。黒くスソの長いエプロンドレスに、頭に載せた白のレース付きカチューシャ。由緒正しきヴィクトリア調のメイド服である。まさか本当にこんな格好をしてるとは思わなかった。 三つ編みにして左右にたらした髪と、度の強そうな眼鏡がアイドルマスターの秋月律子と共通しているが、その眼鏡の奥に光る怜悧な眼光と、厳しく引き結ばれた唇が違っている。 「伊織様、ご無事でしたか」 「うん、私は大丈夫」 と、伊織は僕の方を指差す。 「ただ、こいつが胸を触っただけ」 「ほほーう…」 全身から血の気が引く。なんという悪意ある言葉の省略。サトウさんの眼光が僕を射る。いっそこの眼光で死んでおいた方が楽かもしれない。 「いや、あの、誤解っ」 誤解を解くまでに7回殴られた。 第4章 ※ これは経験から言うのですが、アイデアというものは、それを求め続けていれば、 いつか必ずやって来るものです                 チャーリー・チャップリン ※ アイドルたちの個性についてもう少し触れよう。 如月千早というキャラはボーカリストを自称しており、実際にゲーム中の千早も高い歌唱力を持つ。自分に厳しく、高い目標を持って懸命にレッスンをこなす不言実行の人だ。 が、その歌のあまりの歯切れのよさが悪い方向に作用する時がある。 THE iDOLM@STER アイドルマスター おはよう!!メカご飯                     〜メカ千早ソロver〜 (http://www.nicovideo.jp/watch/sm13817) これは「THE iDOLM@STER」に収録されている「おはよう!! 朝ごはん」という曲だが、スタッカートが効きすぎて各個の音が切り話されており、まるで機械で合成した歌のように聞こえてしまう。そのため千早には「メカ千早」などという不遇な愛称がついてしまった。クールで冷静な性格もそれに拍車をかけているのだろう。 また、菊地真というキャラは典型的にボーイッシュでスポーティな女の子であり、そのため、アップテンポでライトな曲調の歌と合わせられるMADが多く。また熱血系のアニメソングなどと非常によく調和する傾向がある。初期の真は通常プレイでのPVの投稿が非常に多く、人気があったが、最近はかなり積極的にMADが作られている。いま隆盛のキャラの一人だ。 【MAD】アイドルマスター 真 サムライハート (http://www.nicovideo.jp/watch/sm392886) が、最近はメカ千早の属性を強調するようなMADはあまり見られない。俗に「神曲」と呼ばれるような名曲と合わせ、純粋に歌唱力だけをアピールする傾向にあるようだ、また、千早はバスト72センチと、アイドルたちの中で最もスレンダーな体型のため、豊かな胸を持つ三浦あずさと絡ませるなど不謹慎だが笑ってしまうようなMADが増えてきている。 アイドルマスター 私はアイドル (http://www.nicovideo.jp/watch/sm54300) アイマスMAD界には常に新たな作品が生まれ続け、古いものは段々と忘れ去られる宿命にある。その流れの中で、流行りすたりの概念が発生するのは至極当然のことだった。 ※ 五月末から六月始めにかけて、ニコニコ動画のアイマスMADに大きな転機が訪れる。それがランキング動画だ。 アイドルマスター CDTV風メドレー5/22ver 30〜1位 (http://www.nicovideo.jp/watch/sm343473) 有志により製作されたこのランキングは、アイマスMADファンが流行を知る手がかりになることはもちろん、MAD製作者達にも競争の概念を与えた。ランキングに乗ったMADはより多くの目に触れ、そうでない作品は埋もれてしまう。ランキング入りを目指すための創意工夫。細かなノイズや音ズレなどをなくす仕事の丁寧さ。字幕の消し方と、見栄えのある歌詞の挿入。リピーターを獲得するための適切な長さと中毒性。時流を取り入れたMAD作り。ランキングの導入された世界は、それまでと明らかに異質な、より高度な視点でのMAD製作が求められていた。 おそらくこの段階で、ニコニコに上がっている全てのMADをチェックできている人間はいないのではなかろうか。一期一会の世界で己を売り込む。MADには作者の血が流れ、熱が流れていた。 僕は処女作と言えるMAD製作に取りかかった。 まず使用する曲は僕の好きなJ-POPに決まった。少し前に流行ったその曲は底抜けに明るく、夏の日差しを表現するような歌詞が高槻やよいによく似合っていた。それにやよいはアイマス全体でもかなり人気が高く、大勢の目を引くことを期待した。 まずはPCに取り込んであったアイマスのダンスシーン動画を使用曲のテンポに合わせる。結局動画編集ソフトはフリーのものを落としたが、これでも一通りのことは出来るようだ。 ダンスの素材となるのは「魔法をかけて!」という曲。アイマス収録曲の中でももっとも激しくコミカルなダンスのため、明るめの曲ならば何にでも調和する万能のダンスだ。 アイドルマスター やよいソロ 魔法をかけて! (http://www.nicovideo.jp/watch/sm881546) このダンスと合わせる作業におそろしく苦労させられた。何度やっても微妙にテンポがずれてるような気がしたし、同じ動作の繰り返しや、歌詞と合っていないような振り付けを用いるわけには行かない。 8ミリフィルム編集の経験はとても役に立った。アクションを編集する際に用いられる「マッチ・カット」という概念が応用できたのだ。 例えば人物の正面からのカットの後、それが斜め上から見下ろすようなカットに切り替わる場合。それが複数台のカメラで同時撮影したものを、同期させて編集されたものでもないかぎり、観客はそこで一瞬時間が消し飛んだかのような感覚を受ける。 これを防ぐのがマッチ・カット。簡単に言えば、人物が激しく動いた瞬間に、少し時間を飛ばした別角度からのカメラに切り替える技法だ。椅子から立ち上がった主人公が、次のカットでは開かれたドアの内側から客を出迎える。このとき、カットの切り替えの間に数秒の時間が消失しているが、多くの観客は編集そのものを意識しないだろう。つまりはマンガのような時間の流れ方だ。 その技法を用い、画面のやよいが大きくターンする瞬間にカットを切り替え、まったく異なる動作のカットへと繋ぐ。このカットを切り替える瞬間をちょうど曲の切れ目と合致させることで、実に自然な流れとなる。もちろん調整には0.1秒単位の精密さが求められたが。 そしてMADは完成した。細かなところまで何度も調整を重ねて合わせたダンスは完璧だった。字幕にもボカシを入れて、使用曲の歌詞を挿入。サビの部分ではアピールポーズを複数回連続で挿入する。夏の日差しに照らされるビーチの映像を拾ってきて、それをイントロ部分に挿入して曲名をポップなフォントで書き込む。 「……」 ここまで作った動画を見直して、僕はしばらく沈黙する。 この動画には「主題」がない。 確かにダンスと曲はよくあっている。それだけで多少は目を惹かれるものはあると思う。だが、それ以上の物はない。ここまでならば言ってみれば誰にでも作れるレベル。 その上に行くにはどうすれば良い? どんな魔法をかければこのMADは化ける? いくつかアイデアは浮かぶ。だがそれらはいずれも高度な技術が要求されるものであり、今の僕には不可能だった。 いや、今はこれで良い。 限られた事しかしていないが、その中では丁寧な仕事をしたつもりだ。使用曲のファンであれば楽しんでくれるだろう。 動画の最終的なエンコードを行い、それをSMILEVIDEO経由でニコニコ動画にアップする。エンコードの際に画質の劣化も覚悟していたが、想定していたほどではなかった。 夜中にひっそりとアップされたそれは、最初の一週間で再生数571、コメント数37、ごくありふれたMADの一つとしてニコニコの海に漂っていた。僕は正直なところ悔しかった、もっと凄いものを作りたかったが、天啓はまだ降りてこない。 僕は自分の投稿した動画を見る。やよいが楽しげに踊り、一昔前の流行歌が一足早い夏を感じさせる。時おり画面を流れるコメント。「作者乙」「良かったよ、次回に期待」などの優しいコメントが素直に嬉しかった。 体の内に熱が生まれる。次は、もっと良いものを作ろう。誰しもを仰天させるようなものを作ろうと、そう決意を固めた。 ※ 伊織とは何度か電話で話をした。千早の機体を回収したが、搭載されていたはずの「AMI」についてはプログラムが自立消滅していて分析できなかったこと。「MAMI」の開発が大詰めであまり外に出なくなったこと。伊織がパソコンの話をして、僕は映画の話をした。伊織はよく笑った。 長雨の季節がこの国に覆いかぶさり、曇天が空を埋め尽くす日々が続いた。僕は「THE iDOLM@STER」をプレイしながら、空を見上げて日常を背泳ぎする。 ニコニコ動画でのアイドルマスターランキングも4回目を迎え、ますます力作が出揃ってきている。 考えてみれば、僕が挑もうとしているアイマスMADの世界は、アイドルマスターというゲーム「そのもの」ではないだろうか? この場合、MAD製作はゲーム内でのレッスンに相当する。アイドルたちをプロデュースし、曲を与え、ニコニコ動画という芸能界に売り出していく。そこでは現実の人間による人気度が再生・コメント・マイリスト数という形で表出し、製作者であるプロデューサーそのものの評価へと繋がっていく。実際、すでに何人か凄腕のMAD製作者達が台頭してきている。彼らの造るMADは常に高水準を維持し、投稿されると同時に爆発的な再生数の伸びを見せる。 また、流行の概念もある。例えば黒春香やメカ千早などのキャラ付け、あるいはDLCで新コスチュームが提供されれば、それを使用したMADがすぐに山のように作られる。7月18日にはアイドルたちによる新曲、カバー曲を収録した企画CD「MASTER ARTIST」シリーズがリリースされるという。おそらくMAD界にも大きな影響を与えることだろう。 流行を敏感にとらえ、磨き上げたアイドルを世に送り出していく。これは何という魂燃えるゲームであろうか。 僕は絵コンテを切り始めた。これはと思った曲を脳裏に描きながら、アイドルたちの動きを升目上のコマ割りで絵に起こしていく。これはといったアイデアが振ってこない以上。無理に何かを作るよりはイメージを膨らませたほうがいいと判断した。 雨の日、CDショップに出かけると、そこで真に出会った。 「やあ」 ※ 真は僕をショットバーに誘った。 カウンターの奥に居並ぶ酒瓶。くすんだ虹のような玄妙な色合いが店内に満ち、天井のプロペラがゆっくりと時空をかき混ぜる。客は僕と真の二人だけ、カウンターに並んで座り、真は肘までを覆うレースの手袋をつけて、ゆったりと頬杖をついている。 「キミ、なに飲む? マティーニでいい?」 こう振られたら僕の答えは一つしかない。 「ああ…、Vodka martini. Shaken, not stirred(ウォッカ・マティーニ。ステアはせずにシェイクのみで)」 真はキョトンとする。豊かな口ひげを蓄えたマスターは僕の発言ににやりと笑い 「かしこまりました」 と、僕の注文通りのものを出してくれる。真は007には疎かったらしい。真の手元には若草色のマルガリータ。 「キミ、大学生一年生だったよね。もう授業には慣れた?」 「だいぶね。月末には前期試験があるんだけど、まあそんなにたくさん受講してないし、大丈夫そうだよ」 ひとしきり雑談を交わした後、ふいに真の肘がせり出し、僕のテリトリーへと侵入してくる。 「じゃ、本題いいかな」「どうぞ」 真は無粋でごめんね、と言い置いて話を切り出す。タンブラーの中で氷が鳴る。 「伊織さんの研究、そろそろ完成しそうなんじゃない? ここ半月ほど家から出ていないみたいだし」 「さあ? あまり詳しいことは聞いてないよ。電話は何度かあったけど」 真の眼が微笑を維持したまま細められる。こういう表情をすると、猫じゃらしを狙う猫を連想してしまう。 「まず信じて欲しいんだけど、僕は伊織さんの敵じゃないんだ。研究を横取りするつもりもない。適正な価格で売って欲しいだけなんだよ」 それはある程度真実だろう。千早から助けてもらった恩もあるし、僕はなるべく協力的になろうと努めた。 「適正な価格…とはいうけど、伊織の家だって大金持ちなんじゃないの? そうそう売ることはないと思うけど」 「価格ってのは円だのドルだのだけじゃないさ、例えば、今後生涯に渡っての安全とかも立派な取引材料だよ。何せ伊織さんは「MAMI」を作り出せる。現時点において「MAMI」と等価といえるからね、どこかが保護しないと危険すぎる」 真は「誰かが」ではなく「どこかが」と表現した。言外にその意味するものの大きさを窺わせる。 「サトウさんがいるじゃないか」 「そうだね、それに釘宮家だって財界の名士だ。でも国家規模の実力から伊織さんを守れるほどじゃない」 僕は沈黙する。確かにそれは考えなかったことではない。伊織は「MAMI」をどこにも売りたくないと言っていたが、本当にそれが世界を一新するほどのモノだったとして、売らないことが許されるものだろうか。 「キミは疑問に感じないのかな?」 「…何を?」 「使い道、だよ。コンピューターの革命。万能にして全能なプログラム。そんなものを個人で開発して何に使うと言うんだい?」 「……」 僕は、なるべく穏当な答えを探す。 「…一昔前、オーディオの世界じゃメーカー製の最高水準のものより、アマチュアの作った一点物のほうが性能が良かったりしたんだよ。ビニライトのレコード盤を再生するために数百万をかけたんだ。もうこうなると妄執の域だね。それと同じで、単に高水準なものを作りたいだけなんじゃない?」 真はふふっ、と柔らかく笑う。僕の身中に満ちんとするアルコールせいか、いつもより奥ゆかしい笑顔に見える。 「ボクたちも色々情報は得ているんだけどね、どうしても分からないのがその一点なんだ。動機だよ。単に趣味として作ってるのかもしれない、その可能性もあるところが怖ろしいのさ」 真は僕のほうに身を寄せ、耳のそばで囁く。 「実際のところ「MAMI」は個人で独占するのは無理だ。キミもそう思うだろ? かつて流出したというメソッドは僕らの組織でも分析してるけどね、あれは凄いらしいよ。黒色火薬を組み合わせて核爆弾並みの威力を得る理論らしい」 僕は真の方をじろりと見る。わざと不安を煽るような比喩を用いたことに対して、僕は苛立つ素振りを見せる。 「…何も知らないんだよ、君たちより知らないぐらいだ。なにせ伊織とは三度しか会ってないんだよ」 「うん…」と、真はカクテルを一口含む。 「でも、ボクの知る限り、伊織さんが一番心を許してるのがキミなんだよ」 真の手がカウンターの上を滑るように伸び、僕の手を取った。握っていた僕の手掌を開かせ、その手の平に潜り込んでくると、指を開いてそれを僕の指たちと絡ませる。 何かが手の中にある。真の熱が移っているが、元は冷たかったであろう、金属質の感触。 「ボクに協力してほしい」 ※ 外に出ると酷い雨だった。天が降り注ぐかのように重量感のある雨。 通りを歩くものは誰もおらず、街は雨に閉ざされて怯えているかのようだった。 「ひどい雨だね、車呼ぼうか?」 首を横に振る。真はそうかい? と小首を傾げて僕を見る。 僕は口を開く。 「ねえ、真の事も教えてくれないか?」 「ん…」 真は少し考えた後、じゃあ特別だ、と言って、ものすごく近くまで顔を近づける。 真は自分の所属する国家(想像通りの国だった)、自分の本名と年齢、なぜエージェントになったのかについて、短く簡潔に話してくれた。 「エージェントは副業なのさ、ダンサーが本業。でも踊りだけじゃなかなか食べられなくてね、情けない話だろ?」 真は絶対に秘密だよ、と、片目をつぶって悪戯っぽく笑う。真の笑顔はいつも魅力的で、すばらしく多彩だった。 僕は視線を落とし、真の足元で跳ねる水しぶきを見た。 「さっきの件…だけど」 僕は右手を強く握る、その中にあるものの感触を確かめる。 「やっぱり、僕には荷が…」 真は雨の中に一歩踏み出す。右手に傘を持っているが、それは開かれない。大いなる天の涙が真を打つ。 「なんて冷たい雨だろう! 真冬のようだよ!」 強く芯の通った真の声が、雨の幕を通して僕まで届く。 「…な、何やってるんだよ、傘させよ」 「濡れることなど何でもないさ、凍えることも望むところだ、ボクは天涯孤独、孤高無縁のエージェントなんだよ。夜を行き、泥に潜む、寂しいかな、哀れなるかな!」 真は自分の言葉に酔いしれるかのように、両手を大きく広げて雨の中で回転する。そのゆるやかな動きが、僕に何かを思い起こさせる。 「分かっているのかな? これは伊織さんのタメでもあるんだよ」 「でも…」 「ボクたちのやり方は、想定できる限り最も穏便で最小規模なものだ。そしてキミに積極的に関われと言うわけじゃない。キミはその日、その時、その場所にめぐり合うことができたときだけ、そっと手を伸ばせばいいのさ」 真は傘を大きく放り投げる。空中で回転する黒い傘、それを見る僕の脳裏に何かが疾る。 「今日は付き合ってくれてありがとう。是非また会おう、今度は仕事抜きでね」 真は悠然と身を翻し、雨の奥へと消えた。取り残された僕は、そっと右手を開いて、その中にある小さな器物を見つめる。3センチ四方ほどの小さな箱。全体は銀色。取っ手もスイッチも何もなく、開けることもできない奇妙な立方体。 僕はそれをポケットに入れ、浮かない顔で曇天を見つめる。 そして世界に雨音が満ちる。 ※ アパートに帰ってくると、部屋の前に美希がいた。エプロンにサンダル履きの姿で、僕の部屋の前に立っている。 「あ、おかえり、なの」 手には小さな鍋を持っていた。鍋はラップが張られていて、中には半分固化したカレー。 「作りすぎちゃったから、ちょっとおすそ分け、あっためて食べてね」 「ありがとう」 ああ、お隣さんが優しいって素晴らしいなあ。 「? どしたの? なんか元気、ないみたい」 「なんでもないよ。ちょっと色々あって疲れただけ」 そう? と言って美希は僕の顔を下から覗き込む。 「何かあったら力になるからね、美希にすぐ相談して、なの」 なんていい子なんだろう、僕は今にも泣きそうだ。 なんだかんだでカラオケも気にならなくなったし、色々親切にしてくれるし、ついつい出不精になってしまう僕を外に連れ出してくれるし…。このアパートを借りて良かったと、僕はしみじみ感動する。 部屋に戻り、さっそくカレーの鍋をコンロにかける。パソコンとXbox360の電源を入れ、そろそろ物の増えてきた部屋の中央に、自分の体をはめこむ。 先刻見た、雨の中で回転する真。 あの姿が僕に閃きを与えていた。次に作るMADはすでに決まっている。 映画「雨に唄えば」より「singin´in the rain」 第5章 ※ (前略)そう、たしかにジョン・フォードのような監督になってアカデミー賞を4回ももらってみたい。でも私は、あらゆる意味で育った場所が違う。賞が欲しいとか欲しくないとかいうこととは別に、その事実は受け入れなければならないだろう。というのも、私は賞を取るよりはむしろ自分の好きに映画を作るほうを選ぶからだ                      マーティン・スコセッシ ※ アイマスMADを製作し、愛好する世代は20代後半から30代前半までが最も多いと言われる。これは、製作にあたってそれなりの資金力・技術力が要求されることと、アイドルマスターの表現するアイドル像が、1980年代の清純派アイドル路線に近いためとされる。 アイドルマスター 千早・雪歩「猫舌ごころも恋のうち」 (http://www.nicovideo.jp/watch/sm567765) アイドルマスター MAD 「なんてったってアイドル」 Ver1.5 (http://www.nicovideo.jp/watch/sm395552) 架空の存在であるからこそに彼女達には一点の曇りもなく、俗世から隔絶した魅力がある。1980年代とはアイドルの黄金時代であり、松田聖子、中森明菜、そしておニャン子クラブなどを筆頭として数多くのアイドルが生まれた。歌を中心としたプロデュース展開はこの時代に確立し、フリルのついたロングスカートなどの独特の衣装は現在では失われてしまったが、アイドルマスターの世界には確かにその空気を伝えるものがある。 アイドルたちの歌うステージも、どことなく当時の歌番組を連想させる作りである。スモークやサーチライト、銀紙の紙吹雪などによる演出はまさにそのものだ。 さて、「THE iDOLM@STER」を愛好する世代の平均年齢がやや高いため、MADにも彼らの青春時代を思い起こさせるようなものが好んで作られることとなる。それらは総じて「おっさんホイホイ」なるキーワードで整理され、60年代から80年代にかけての名曲を使ったMADが数多く製作され続けている。 アイドルマスター ドリフ大爆笑 (http://www.nicovideo.jp/watch/sm511172) アイドルマスター (初戀) (http://www.nicovideo.jp/watch/sm242667) もちろん最近の流行曲を取り入れたMADも多数存在するのだが、アイマスMADに使用される外部曲のうち、実に3分の1は80年代のものである。これはアイマスファン層の姿を、その裾野の広さを如実に示すものと言えるだろう。 ※ ミュージカル映画「雨に唄えば」が公開されたのは1952年。主演のジーン・ケリーが雨の中で踊るシーンは、映画ファンならずとも誰もが一度は見たことがある、ミュージカル映画史で、いや、映画史でも最も有名なシーンの一つと言えるだろう。 (http://www.nicovideo.jp/watch/sm68879) このシーンこそ、まさに神の宿りし6分間である。この時40度の熱があったといわれるジーン・ケリーは、それをまったく感じさせない陽気で軽快な、人生への賛歌にも似た足取りでタップを刻む。このシーン以外にも見所は山ほどあるのだが、やはりここだけが特別視されるのも頷ける。 ジーン・ケリーはスーツ姿であり、この状態で雨を浴びながら、でこぼこにして水溜りを作ってあるセットの上を、息も切らせずワン・ショットで踊りきるのは至難の業である。しかし彼は踊る。踊らねばならないから踊るのではなく、踊るために舞う。それは劇中での彼の恋心を表現していた。まさに天にも昇る心地。そのとき、彼は重力のくびきからも自由だった。 僕が作ろうとしているのはこのシーンだった。主演は菊地真。背景を暗くし、画面全体に雨を合成する。ここで言う雨は天候の雨のことでもあり、古くなったフィルムに降る「雨」のことでもある。 まずは曲とダンスの合成。両手を広げて優雅に動き回る素材が欲しかったため、「青い鳥」を中心に、他にも何曲かから素材を取った、「Here we go!!」などのステージエフェクトがまったく異なる曲を、画面を暗くし、ダンススピードを変化させることで一繋がりの映像へと繋げていく。 ダンスの編集は、映画のシーンを連想させるような大きな動きを。ステージ全体を使って動き回るような流れを作った。タップを刻むシーンは局所的に再生速度を速めて表現する。 途中には星井美希の演じるジーン・ヘイゲンとの会話を挿入。視聴者を飽きさせない工夫だ。コミュニティ画面の立ち絵に、原作より持ってきた英語音声と日本語字幕を挿入していく。このシーンは自分で思っていた以上にそれっぽくなった。どうやら英語音声と字幕のせいで、脳が場面の意味を補完してくれるらしい。 画面に雨を合成するのは大変な作業だった。雨のエフェクト自体は簡単にかけられるのだが、画面が「寄せ」か「引き」か、そして角度によっても雨の方向を微妙に変える。背後のサーチライトやプロジェクターも考慮して、なおかつ真が画面に溶け込んでしまわないように雨を「削って」真を浮き上がらせる。ほとんど1コマずつの作業である。この作業をおろそかにすると、いかにも画面に雨を嵌め込んだだけの合成の産物になってしまう。僕の描く雨はレイヤーの内側に、ステージに直接降る雨でなくてはならないのだ。 あくまでも自然に、しかし印象的に雨を降らせる。この作業は後に思い出しても地獄だったと思う。 技術的にも新たに覚えなくてはいけないことが多くて大変だったが、何のことはない。完成形がしっかりとイメージできてさえいれば、そこに至る方法など何とかなってしまうものだ。 その週の土日はこの作業で完全に潰れた。僕は自分で作った動画が、確固たる一つの意味を持とうとしているのを感じていた。これは単なる「雨に唄えば」の再現ではない。アイマスMADという地平の果てに広がる。まったく新しい映像世界だった。 真は踊る。雨の中踊る。 ※ 完成したMADをエンコードし、ニコニコ動画に投稿して数時間。前回とは明らかに再生数の伸びが違う。コメントにも興奮と賞賛が感じられる、実に落ち着いた丁寧な批評のコメントも、興奮と感激を感じさせる大文字のコメントも、どちらも等しく嬉しかった。拍手を浴びているかのようなおもはゆい感情。 このまま順調に伸びていけば週刊ランキング入りも狙えそうだったが、僕はその動画の行く末をずっと見続けるわけに行かなかった。サトウさんから突然電話がかかってきたのだ 「スーツはお持ちですか?」 唐突な切り出し方だなと思いつつ、はいと答える。 「あれが完成いたしました。つきましてはちょっとしたパーティーを開いてお披露目を致しますので、お嬢様が貴方にもお友達として、参加いただきたいとのことです。正装の上お越しになってください」 サトウさんはお友達として、の部分を物少し強調した。 完成したというと「MAMI」とかいうコンピュータのことだろうか。 「いいんですか? 僕なんかが行って」 「お嬢様を何度か助けていただいたのは事実ですし、私もそこまで報恩を知らぬ人間ではありません」 「そうですか…分かりました、じゃあ行きます」 「『本日』朝10時に迎えにあがります」 電話を終えて時計を見る。実にあと8時間しかない。というか深夜の2時にあんな電話かけてくるってどうなんだろう、大人として。 僕は伊織のことを思い出していた。直接会うのは一ヶ月ぶりほどにもなろうか。気の強そうな目線と、腰をそらして堂々と立つその姿。ひときわ目立つ大きな額、棘がありながらも人をひきつけてやまない甲高い声。 僕はXbox360を起動させ、伊織をプロデュースしていたセーブデータを読み込む。そして明け方までプレイして、座った姿勢のまま僅かにまどろむ。 ※ 高校の頃、僕たちの映画同好会の主事を務めてくれた人がいた。 大学を卒業してすぐ僕らの高校に赴任して来た英語教師で、まだ22歳だという。高橋あずさというその先生は、実に映画についてはズブの素人だった。スピルバーグとジョージ・ルーカスの違いも知らなかった。それでも常に僕たちと一緒に居て、僕たちは彼女を中心に動いていた。 何のことはない、その先生は見目麗しい妙齢の美人、慎ましやかな和風の魅力がある人物だったのだ。空気を含んでふくらむ長い黒髪と、細めた目が柔和な表情を浮かべる穏やかな様子。動作のひとつひとつに落ち着きがあり、その場にいるだけで皆を和ませるような、稀有な存在だったのだ。それに考えてみれば先生は最高の観客だと思う。100億円をかけたハリウッド映画しか見ないような人が、僕らの同人映画に興味を持ってくれるなんてそうそうないじゃないか。 企画会議から撮影、上映会から打ち上げのファミリーレストランまで、あずさ先生はよく僕たちに付き合ってくれた。特に何かをするわけではない。ただ場の片隅に暖かな存在感とともに座し、雑談を交わしながらその場にいるだけだ。僕らの同好会は学校に正式に認められてたわけではないので、あずさ先生が顧問のような形でいてくれるのはそれだけで色々と助かることが多かった。 夏休みのとある一日、夏期講習のために学校に出てきた僕は、その放課後に4階の理科実験室…まあつまり誰も来ないような部屋で。暗幕を引いて映写機にフィルムを装填していた。その背後には、中央に流し台のある実験卓に座るあずさ先生。僕たちの代表作の、ひそかな上映会。 なぜあんな状況が生まれたのだろうか。先生から声をかけたような気もするし、違うような気もする。他に誰かいたような気もするし、いないような気もする。ほんの半年ほど前のことなのにあまりに記憶が曖昧だ。 まあいい、あずさ先生と僕以外の存在などあまり重要ではないということだろう。 黒板の前に降ろされたスクリーンに、僕たちの撮影した最後の映画「春の雪」が流れる。ファーストシーン、ノイズ交じりのピアノ曲。 病院の廊下。 背中を向けて歩く雪歩を、後方から近づくカメラが追いつき、ぐるりと回りこんで横顔をとらえ、そして追い抜くと同時に雪歩がふと窓の方を向く、ここでカメラは窓の外へと出て、窓を透かして雪歩の顔をとらえながらグラウンドのほうへと下がっていく。無論、カメラが窓の外に出る場面でいったんカットが入っている。廊下の中から撮影したシーンを、グランドから望遠でズームダウンしていく画に繋いでいるのだ。移動と静止、接近と離脱。流れるような場面転換とともに僕らの意識は揺さぶられ、観客は映画の世界に引き込まれてゆく。 「残念だなあ…」 ぽつりと、あずさ先生がそう呟く。どうかしましたか、と僕が聞く。 「雪歩さん、こんなに綺麗に映ってるのに。もう一度、一緒に見たかったよね…」 言われて、僕はハッとなる。 この暗く、人数の割には広すぎる空間に雪歩がいない。これは雪歩が主演の映画だというのに、当然ここにいるべきはずなのに、暗闇のどこにもその体温を感じない。大切なものをどこかに忘れてしまったときのような、圧迫感にも似た不安が僕のうちに広がる。 「雪歩さん、誘ったんだけどね、用事があって駄目なんだって」 「そうですか…」 画面の中の雪歩を見つめたまま、僕はなるべく声を抑えてそう言う。 「雪歩さんと仲直りできた?」 「……」 あずさ先生のその言葉に僕は答えることができず、何もいえぬままただスクリーンを見つめた。 場面は進み、ドラマは巡り、あのクライマックス・シーンが近づく。 ようやく僕は言葉をこぼす 「怖い、と」 「……怖い?」 「僕のことが怖いと、言われちゃったんです。この映画のせいで」 怖い。 なんて幅広い意味を持った圧倒的な言葉だろう。僕はその言葉の前になすすべがなかった。拒絶よりも遠く、嫌悪よりも悲しい、雪歩は僕と、僕の編集したこの映画を、そして映画に映る自分自身を怖いと言ったのだ、僕がそう言わせたのだ。 「このシーン、先生はどう思います?」 「とてもいいシーンだと思うわ」先生はいつも迷いなく述べる。「とっても」 「でも、雪歩は怖いと言ったんです。この映画に映る人物は誰なんだろうと、カメラの前に立っていたはずの自分と違う、この人は誰なんだろうと。僕は元々のフィルムに編集を加えて、この場面の意味を少しだけ書き換えたんです、それが雪歩には受け入れられなかった」 僕は振り返る。暗がりの中で、先生のシルエットしかわからない。 「でも、あなたはこの雪歩さんの方が魅力的だと思ったんでしょう?」 「そうです」 僕はそれを否定しない。僕までがこの映画を否定したら、この映画は誰のために在るというのだ。 先生は暗闇に吐息を漏らす。映写機はカタカタと回る。 「雪歩さんの演じたものと、あなたの見ていたものが違っていたという事なのね」 「そんなところです」 「そんなこと、ありふれてるのに」 そうだ、ありふれている。雪歩が表現したかったものと、僕が雪歩で表現したかったものは違う。まったく同じなどということはありえない。 意思疎通の不完全性。あまりにも日常的過ぎて、それが重要で悲劇的なことだと誰も思いもしない、社会という生命が抱える病。 「雪歩さんに、喜んでほしかったのね」 「…………」 画面の中には雪歩がいる。僕はふと、雪歩はこの映画の他にはどこにもいないような錯覚にとらわれた、雪歩が架空の存在のようにすら思えた。赤く上気した頬、感情の流れに潤みながらも、その奥に確固たる意思を備えた瞳。 あずさ先生は言った 「また、映画を撮る気はないの? これから受験で忙しくなるけど、大学に入ったら…」 僕は静かに首を振る。 「もう撮りません」   ※ 目が覚めると、いきなり騒々しかった。 テーブルの上では携帯が鳴りわめき、目覚まし時計はヒステリックにがなり立て、テレビには「THE iDOLMASTER」の画面が映し出されている。アイドルたちと日常会話を交わすコミュニティー画面。このときに流れるゲーム内BGM「TOWN」は、その小気味いいリズムがユーザーに好まれており、この曲だけを延々とリピーとさせるようなアイマスMADも存在する。 アイドルマスター てってってー (http://www.nicovideo.jp/watch/sm486315) どうやらゲームをしながら寝てしまったようだ。目覚まし時計を見ると丁度朝の10時。10時にサトウさんが迎えに来る予定なのに10時に目覚ましかけるのもよくないなと思いつつ、携帯の方に出る。 「はい、もしもし」 「お目覚めですか? 15分待ちますので、身なりを整えて降りてきてください」 サトウさんの声だ、どうやら少し待たせてしまったらしい。僕は急いで身支度を整え、ダンボールに仕舞いっぱなしだった青山のスーツを着る、案の定ネクタイにもたつく。 そういえばサトウさんはどんな車で来たんだろうか、いつぞやのエルダー・ブラックのロールスロイスか、あるいはマイカーの軽とかかも知れない。 シェルビー500マスタングだった。色はシルバー。 「…ナマで見たのは初めてです」 なんなんだ、この前から炎とか吹き出そうなデザインは。鎧武者みたいにいかめしいフォルムは。どういうポリシーを持ってるとチョイスがこれになるんだ。 数年前にヒットした映画では実にワイルドな走りを見せていたが、サトウさんの運転もそれに勝るとも劣らぬものだった。首都高速に入るや否や絶対にありえない角度でカーブに突入し、テールを振りながら抜けていく。四点式シートベルトが腹部に食い込む。 「あのう、釘宮さんの家って遠いんですか?」舌を噛みそうなので慎重に口を動かす。 「いえ、お嬢様はお台場にあるマンションに住まわれています。今向かっているのもそこです」 今日のサトウさんの服装はいつものヴェネチア調のメイド服、いつもと違うのは革手袋だろうか、それをはめた手でスポーツタイプのハンドルを握っている。アクセルワークが凄まじく速い。それにしても首都高速ってこんなにガラガラだったっけ? 道の果てに陽炎が見えるぐらいにまったく車がいない。 「今日はどんな人が来てるんです? 釘宮さんの個人的な友人とかですか? それともやっぱり世紀の発明なんだし、IT社長とか他の科学者とか…」 「まあ色々です。じきに分かります」 どうも含むところのある言い方である。もし世間的なお偉いさんが来るのなら教えておいて欲しいのだけど。 「それより、ちょっと後部座席に置いてあるケースの中身、取ってもらえますか」 「? はい」 後部座席を覗き込むと、子供なら一人ぐらい入れそうな巨大なジェラルミンケースがあった。何となく嫌な予感を感じつつ開けてみると、黒い筒状の物体。ああ嫌だ嫌だ、これが何なのかを考えるのが嫌だ。僕は目を閉じてそれをサトウさんに渡し、助手席で小さくなって両耳をふさぐ。 「M203グレネードランチャーというやつです。弾頭は46ミリの…どうかしましたか?」 「僕は善良な一般市民なんですからそういうバイオレンスには関わりたくないんですチキンですみませんっ」 サトウさんはその筒状の物体を中ほどで折り曲げ、榴弾を筒の中に詰める。そしてサイドウインドウを下ろし、筒を外に出して後方に一撃。ぽうっというポップコーンが弾けるような音がして、数瞬の後に遥か後方から爆音と振動が僕の体を駆け抜けていく。サトウさんは舌打ちを一回。 「千早(シャンツィアオ)ですね。3体ほどいます。いったいいつ私たちの動きを察知したのやら。どうも道が空いてるんで変だとは思ったんですが、彼らがどこかで道路を封鎖してましたか」 ちなみに現在時速130キロ。 「……どうやって追いかけてきてるんですか? そんな早く走れるんですか?」 「え? いや普通に車を運転してきてますが、運転してるのが1体で、その屋根に2体」 そんなこともできるのか。 「だっ、大丈夫なんですか?」 「ご心配には及びません、本日は装備を充実させておりますので」 サトウさんの駆るマスタングの助手席側のサイドに、黒のポルシェがスピードを上げて喰らいつく。座席にはスーツ姿の千早、前に見たときと同じバイザー型のサングラスをかけている。屋根の上にも同じ千早がいるとのことだが、互いの車の距離が近すぎて足元しか見えない。 サトウさんが横を見もせずに口を開く。 「シートを思いきり倒してください、3・2・1」 助手席側のウインドウが音もなく下がってゆく、僕は一秒で全身に鳥肌を立てながらシートレバーを倒し、がくんと体が下がるその胸の上を火線が突っ走り、マスタングがスピードを上げ壁際ギリギリまで移動してポルシェから離れる。次の瞬間、凄まじい爆圧がサイドからマスタングを押し、僅かに片輪が浮いてまた着地する。僕はもはや声も出せない。 「ふむ…、炸薬はだいぶ抑えたんですが、それでも車内でM203なんか撃つものではありませんね。煙たいしうるさいし。後でシートごと内装を交換しないと火薬の汚れが…」 サトウさんは多分そんなことを言っていたのだろうが、鼓膜の内側が耳鳴りで一杯になっていて半分も聞こえない。 と、その時、マスタングの無骨なボンネットに千早が降り立った。蜘蛛のように低い姿勢で張り付き、車体に素手でしがみつくと、千早の指にそって鋼鉄のボディーが変形する。 「おや、一体飛び乗ったみたいですね。大したバランス計算です。さすがはプロトタイプの『AMI』を載せてるだけあります」 サトウさんは一度壁際から3車線の中央へと車をスライドさせ、マスタングを加速させ、大きくハンドルを切ってさらにブレーキを踏み込み、あろうことか高速走行するマスタングをその場で360度スピンさせる。タイヤが削られる鋭い音、重力が外向きに流れ、景色がめまぐるしく変化して車体が大きく跳ねる。千早が振り落とされそうになるが、ボンネットにアーミーナイフを突き立ててなんとか踏みとどまろうとする。 この後も千早とサトウさんの激しい攻防があったらしいのだが、車がスピンしたあたりで僕はあっさりとブラックアウトした。 ※ 「朝食を抜いてきたんですか、感心しませんね、若いといっても不摂生な生活は体に毒です」 サトウさんにそのことを見抜かれたのは、吐こうとしても何も吐くものがなかったからだ。 どこかのマンションの地下駐車場。僕は経験したことのないほどの吐き気に襲われている。そのうち胃が裏返しになって出てくるんじゃなかろうか。耳はうわんうわんとずっと変な残響が残っているし、鼻は火薬の刺激臭が残ってて満足に呼吸もできないし、目は痛いし全身痛いし、脳がミキシングされたみたいにドロドロになっている。サトウさんは特に変化なく、うずくまった僕の背中をさすっている。凄すぎる。 たっぷり十分後、ようやく落ち着くと、サトウさんは脱臭スプレーみたいなものを互いの服に吹き付ける。確かにスーツが火薬臭いんじゃ人前には出にくいので、この配慮には助かった。 「倒したんですか、千早」 「ええ、とりあえずは」 地下からのエレベータで上へ。 「お嬢様の住まわれているのは18・19・20階です。20階が最上階となりますが、そのフロアにあるイベント・ホールが本日の会場です」 ということは3フロアを個人で借りているわけだ、お嬢様というよりIT長者みたいな住まいだなと僕は思う。エレベータはゆっくりと上昇する。 「私は…」 と、ふいに改まった様子でサトウさんが口を開く。 「私、佐藤律子は…釘宮の家にお仕えして3年になります。それ以前は海外で傭兵をやっておりました」 「……」 「お嬢様と共に生活していたこの3年、我儘で、食べ物の好き嫌いが多くて、研究に霧中になると何日も部屋から出ないときもあって、それに何より逃避癖がありました。困ったお嬢様でしたが、それなりに充実した毎日だったように思います」 サトウさんは何を言いたいのだろう。その目はエレベータの天井を見つめて、何かを探すかのように彷徨っている。 「お嬢様のご両親のことはご存知ですか?」 「いえ、聞いてないです」 「そうですか、ご両親とも実業家です。ただニューヨークにお住まいでしてね、向こうではちょっとした顔役なのですが、お嬢様とは一昨年の夏に会ったきりですね」 「……? 今日は来ていないんですか」 「来ておりません、代理の者を寄越されてます、何もかもを他人に任せることのできる方なのですよ。経営者としては理想的なのですがね」 エレベータが止まる。扉が静かに開くと、その奥から流れ出す大勢の気配。赤い絨毯の敷かれた廊下の奥に、タキシードを着た若い女性が二人、受付のカウンターを作って立っている。僕は一歩を踏み出す。 「……」 何だったのだろう、今の会話は。なぜ伊織の両親の話をする必要がある? 妙な感覚だった、ページを読み飛ばしたまま本を読んでいる時のような居心地の悪さ、何かが秘匿されたまま物語が進んでいる。僕はまた何か大きな渦に巻き込まれている。 サトウさんの先導で、正面の大きな戸を開ける。 受付を抜け、ホールの大扉を抜けると、中は異様な空間だった。 何百人も入れそうなホール状の空間、部屋全体はホールケーキのような円形で、屋根は中央部がやや高くなっている。その部屋にはありとあらゆる、本当の意味でありとあらゆる意味でのコンピュータが置かれていた。数百のディスプレイが正面を向いて墓場のように並び、コード類が床といわず壁といわず這いずり回り、むき出しのマザーボードがいくつかのテーブルの上を埋め尽くし、ノートパソコンが座布団のように無造作に積み上げられ、崩れたものは散乱している。巨大なスパコンが何台も並んでいるかと思えば、いかにも高級そうなモバイルパソコンがいくつも落ちている。ホールには正面以外にもいくつか入り口があったが、それはすでに扉が取り払われ、その奥にもコードとケース、そしてディスプレイの列が伸びている。通電しているものもあれば、明らかに壊れているものもある。高価なCPUがゴミのようにばら撒かれている。 そこに集まっていたのは、主に40代から60代ぐらいまでの、いかにも社会的に地位を有してそうな恰幅のいい男達だった。みな白髪を振り乱してパソコンを漁り、コードを繋ぎ、プログラムの流れるのを鬼気迫る様子で見つめ、誰もがその作業をしながら携帯電話で何かを怒鳴っていた。 「大変な量でしょう? お嬢様の十数年に渡るコレクションです。これはそのままコンピュータの近代史でもあります」 「何ですか…? コレ」 「ですから『MAMI』の完成記念パーティーですよ」 僕はサトウさんの顔を盗み見る。サトウさんは周囲の老人達を退屈そうに眺めていた。 「釘宮さんはどこに?」 「おられません」 僕はその場できびすを返して帰ろうとする。サトウさんが僕の肩をつかんで引きとどめる。 「…正直に言います、伊織に会えると思ったから来たんです」 「理解しております。まあ、メッセージだけでも聞いていかれてください、これはお嬢様のご希望なのです」 メッセージとは、ホール中央のテーブルに準備されたICレコーダーだった。細長く軽量なICレコーダーが、まるでバイキングに出てくるニンジンスティックみたいにワイングラスに何本も挿してある。 ――お集まりの皆様、御機嫌よう。わたしは釘宮伊織、望まずながら天賦の才を備えて生まれ、これまでの短い半生を主にプログラミングの研究に捧げてきた、とるに足らない一介のエンジニアです―― 確かにこれは伊織の声だ。僕と会っていた時とは少し違い、変にかしこまった様子で、明らかに使い慣れていない丁寧な言葉でメッセージを吹き込んでいる。必要ない謙遜と自慢が混ざっているのがいかにも伊織だ。 ――お集まりの皆様は既にご承知と思いますが、わたしが研究していたテーマはかつて研究されていた次世代のプログラムメソッド「AMI」の複製、わたしはコードネーム「MAMI」と呼んでいた、高性能OSです。これは既存のコンピュータの概念を大きく覆すものであり、その性能は単純にクロック周波数で表現することは困難ですが、一応の目安としては―― しばらく技術的な話が進み、そして一段落すると、しばらくの間を置いて続く。 ――こうして「MAMI」の完成に至って、わたしは少し疲れを感じました。元々、私はエンジニアとして素晴らしいプログラムを作りたいだけだったのです。「MAMI」の引き起こすゴタゴタに巻き込まれるのは嫌です。長い旅に出ようと思います。「MAMI」はこの部屋のどこかにありますから、適当に探して持って行ってください。早い者勝ちということでいいです。このフロアのどこかにあることは、両親の名誉にかけて誓います―― 音声はそこで終わる。 「…………」 僕はしばらく、そのペンライトのような形状のICレコーダーを見つめていた、一分あまりもそうしていたと思う。 伊織はこんな退屈な喋り方をする人間だったろうか、あの刺々しい口調で僕を罵っていた彼女が懐かしい。 「…という訳です」背中に降るサトウさんの声。 「…じゃあ、あそこでパソコンあさってる人たちは?」 「色々です、役人とか、大学教授とか、大企業の重役とかです。どこから嗅ぎつけてくるのか、完成が近づくに連れてあちこちから群がってくる人が多かったもので、今回こうして一斉に集めたのですよ」 「伊織はどこに行ったんです?」 「私も存じません。実は、今日を最後に私も暇を頂くことになっています」 「なるほど、おかしいと思ったんです。サトウさんが伊織を一人にして僕を迎えに来るなんて、ありえない」 サトウさんは肩をすくめる。 僕はICレコーダーを一本抜き取り、それを上着のポケットに入れた。 「このレコーダー、貰っていいんですよね?」 「ええ、お客様用にたくさん用意してありますので。それでどうします? このフロアにあることは確かだと伊織様は仰られてましたが…探しますか? まだ調べられていないパソコンも随分ありそうですが」 「探しません、見つかるわけないし」 サトウさんは口の端に笑みを浮かべた。この人が笑うところを初めて見た気がする。 「貴方は賢明な人ですね」 僕は周囲を一瞥する。僕とサトウさん以外は世界で一番忙しい人みたいに走り回り、白髪を踏み乱し息を切らせつつ、山と積まれたパソコンを片っ端からいじっている。よく見てみれば、キーボードやマウス、スピーカーなどは部屋の片隅に一まとめにされていた。 「あんまり寝てないんです。ちょっとベッド借りていいですか?」 第6章 ※ すべてが終わってしまうと、最後に残るのはフィルムだけだ                      ロジャー・コーマン ※ 映画の発明者というものは厳密に定めることはできない。例えばとある洞窟に残る馬の壁画には足が「八本」描かれている。これは動きの異なる複数の脚を描くことで、馬の走るさまを表現しているのだという。 19世紀末にリュミエール兄弟とエジソンが映画の原型を生み出した時代、その後の数年で早くもスペクタクル、恋愛、コメディ、そしてポルノの原型となる映画が生み出されている。音もなく、一作品が極端に短く、画質など論じるまでもないこの映像に、人々は強く惹きつけられた。平面的な画像が動くこと自体に感動する、それは人間の視覚的欲求の発露としか言いようがない。 アイマドルマスターMADにおいては、既に発足から数ヶ月ですべての楽曲、すべてのアイドルのMADがかなりの数生まれ、コスチュームや衣装の組み合わせもほぼ出揃ったと言われている。MAD製作者の数、仕事量の素晴らしさを物語る事であるが、ここに至り、無限に思われたアイマスMADの世界も、外の世界に素材を求める必要性が生まれてきた。一部のMAD製作者達の視線は単なるゲーム動画と音楽の組み合わせにはとどまらず、更なる境地へと進もうとしている。 その手法として、通常のゲーム画面からアイドルたちだけを切り抜き、まったく別の背景と合成するものがある、この手法は「抜き」などと呼ばれ、クロマキーを用いてオートマチックに抜くものもあれば、執念にも似た情熱でヒトコマずつ抜いていくものまである。 アイドルマスター ロケットガール 高槻やよい 【GO MY WAY!】 (http://www.nicovideo.jp/watch/sm611444) また、イラストを用いて楽曲を表現するMADもある。元々ニコニコ動画でファンアートを披露する場合はBGMにアイマス楽曲を用いることが多く、MADはその延長線上の存在ともいえる。中にはアニメーションまで自作してしまう強者もいるほどだ。 アイドルマスター 『魔法をかけて!』を描いてみた (http://www.nicovideo.jp/watch/sm847786) また3DCGを自作するものもある。これは使用ソフトが高価なことなどもあり、非常に敷居の高いMADと言われているが、それだけに作品として昇華したMADは独特の輝きを放つ。 ワスレナとかち (http://www.nicovideo.jp/watch/sm745200) アイマスMADと呼ばれるこの一連の作品群が、果たしてどのような方向へと進化を遂げていくのかはまだまだ未知数である。だが、静止画から動画へとネット全体が移行しつつある今、このムーブメントは将来的にあらゆるMADムービーの貴重な礎となることだろう。   ※