「千早、撮影始まるぞ」 「はい、準備できてます」 呼ばれて立ち上がり、帽子をかぶりなおす。 そう、ちょうどこんな帽子だった。 最近なぜかよく思い出す、あの日のこと。 あれは弟を失ってから……家族が壊れてから間もないころだった。 居場所のない私は、ただあてもなく外を歩いていた。 いつか家族で旅行に行ったときの、お気に入りの服と帽子を身に着けて。 「あっ……」 そんなある日のこと、不意の風が帽子をさらった。 私の短かった腕は届くことなく、帽子はどんどん小さくなっていった。 その光景はまるで、二度と戻らない幸せを見ているようで。 すべてのものがこの手をすり抜けて飛んでいってしまうような気がして、気がつくと涙がこぼれていた。 そんな時、帽子のほうから声がした。 「よっ…とっと……うわっ! っと……よしっ」 そこには帽子を捕まえてしりもちをついた、誰かがいた。 ちょっと頼りなさげな印象の、男の子だった。 ……もっとも5つくらいは年上のようだったので、男の子というは失礼だろうか。 目が逢った。 「ははは……」 その人はばつが悪そうな顔で立ち上がると、そのまま私の頭に帽子をかぶせた。 「何とか汚れずにすんだよ。はい、これでよし」 「…………」 「もう、飛ばされちゃだめだぞ」 それだけ言い残して、その人はまた、どこかへ行ってしまった。 ずっと呆然としていた私は声もかけられず、結局どこの誰だかもわからずじまいだった。 あれから何年か経って、どんな顔をしていたかも思い出せない。 しかし最近、よく思い出すのは。 あの人と過ごす時間が増えるごとに、思い出すのは。 やっぱり、似ているのだろう。 あの日の、あの姿に。 「きゃっ……」 そんなことを考えて呆けていたら、帽子が風に飛ばされてしまった。 あの日のように、飛ばされていく。 そして。 「よっ…とっと……うわっ! っと……よしっ」 帽子のほうから、聞きなれた声がする。 声の主は、しりもちをついたままこちらに微笑みかけている。 起き上がった彼の手にある帽子が、再び私の頭にかぶされる。 「何とか汚れずにすんだよ。はい、これでよし」 そしてその優しい手が、私の頭をなでる。 「もう、飛ばされちゃだめだぞ」 「あ――――」 「ん? どうした?」 「……いえ、なんでも」 「そうか。じゃ、撮影がんばって。……あれ、今、千早に帽子かぶせたとき……なんか……」 つぶやきながら、彼は歩いてゆく。 その後姿は、何年もずっと変わらずにいてくれた。 ふたつの姿とふたつの想いが、ひとつになった。